10月を過ぎると修学旅行を行う高校が少しずつ出てきます。韮山高校では例年11月前半に2年生を対象に、長崎・熊本といった九州方面の旅行が企画されています。小生が在学していた頃は京都・奈良というお決まりのコースで、中学校時代とあまり変わりばえしませんでした。今は3泊4日ですが、小生の頃は4泊5日でした。
 そもそも修学旅行はいつ頃始まったかというと、明治25年(1892)に文部省で修学旅行奨励の訓令が文部大臣から出されています。
 しかし精神鍛錬の軍隊式だったためなかなか浸透しなかったようで、明治34年(1901)頃から方針を変えて現在のような形になったといわれています。
 本校はこの面では先進的で、県立移管した明治30年(1897)年11月に3泊4日で箱根・小田原コースの修学旅行を行っています。これは『韮山中学校学友会報』に「修学旅行日誌」として残されています。
 旧制韮山中学校初代校長の小永井校長を総監として、中隊長に小松少尉を据えて生徒149人、職員11人の規模で11月10日の朝出発しています。学校を出発して山中城まで歩き、そこから箱根路を歩き、箱根神社を参拝しています。箱根に1泊し、翌朝熱湯の湧き出る小湧谷を歩き、箱根湯本を通り、早雲寺に立ち寄りました。その後早川を抜け、小田原城に到着します。その日は小田原に1泊しています。
 次の日朝、小田原を出発し、根府川を通り、熱海の伊豆山に着き、そこの尋常小学校生徒たちの出迎えを受けています。そしてそのまま熱海に宿泊しました。
 最終日は朝伊豆山神社を詣で、ここで北条政子関係の宝物を拝観しています。伊豆山から日金山へ登り、軽井沢へ下り、平井を抜けて夕方5時に学校に到着しました。
 全行程で歩いた距離は約96キロで、1日平均24キロほどでした。精神鍛錬もありましたが、韮山高校ゆかりの中世の歴史を学ぶ機会にもなっていたようです。それは北条早雲関係で、小田原城や山中城をはじめとする後北条家を辿るコースでもありました。以前もお話したように早雲は龍城山の韮山城を築城して、今の志龍講堂あたりに位置するお屋敷で亡くなっていますから、当時の生徒たちにとって歴史を体感する機会でもありました。
 何かの機会で、こうした歴史コースをウォーキングすることを企画しても面白いかもしれません。

 10月を過ぎると修学旅行を行う高校が少しずつ出てきます。韮山高校では例年11月前半に2年生を対象に、長崎・熊本といった九州方面の旅行が企画されています。小生が在学していた頃は京都・奈良というお決まりのコースで、中学校時代とあまり変わりばえしませんでした。今は3泊4日ですが、小生の頃は4泊5日でした。
 そもそも修学旅行はいつ頃始まったかというと、明治25年(1892)に文部省で修学旅行奨励の訓令が文部大臣から出されています。
 しかし精神鍛錬の軍隊式だったためなかなか浸透しなかったようで、明治34年(1901)頃から方針を変えて現在のような形になったといわれています。
 本校はこの面では先進的で、県立移管した明治30年(1897)年11月に3泊4日で箱根・小田原コースの修学旅行を行っています。これは『韮山中学校学友会報』に「修学旅行日誌」として残されています。
 旧制韮山中学校初代校長の小永井校長を総監として、中隊長に小松少尉を据えて生徒149人、職員11人の規模で11月10日の朝出発しています。学校を出発して山中城まで歩き、そこから箱根路を歩き、箱根神社を参拝しています。箱根に1泊し、翌朝熱湯の湧き出る小湧谷を歩き、箱根湯本を通り、早雲寺に立ち寄りました。その後早川を抜け、小田原城に到着します。その日は小田原に1泊しています。
 次の日朝、小田原を出発し、根府川を通り、熱海の伊豆山に着き、そこの尋常小学校生徒たちの出迎えを受けています。そしてそのまま熱海に宿泊しました。
 最終日は朝伊豆山神社を詣で、ここで北条政子関係の宝物を拝観しています。伊豆山から日金山へ登り、軽井沢へ下り、平井を抜けて夕方5時に学校に到着しました。
 全行程で歩いた距離は約96キロで、1日平均24キロほどでした。精神鍛錬もありましたが、韮山高校ゆかりの中世の歴史を学ぶ機会にもなっていたようです。それは北条早雲関係で、小田原城や山中城をはじめとする後北条家を辿るコースでもありました。以前もお話したように早雲は龍城山の韮山城を築城して、今の志龍講堂あたりに位置するお屋敷で亡くなっていますから、当時の生徒たちにとって歴史を体感する機会でもありました。
 何かの機会で、こうした歴史コースをウォーキングすることを企画しても面白いかもしれません。

 10月を過ぎると修学旅行を行う高校が少しずつ出てきます。韮山高校では例年11月前半に2年生を対象に、長崎・熊本といった九州方面の旅行が企画されています。小生が在学していた頃は京都・奈良というお決まりのコースで、中学校時代とあまり変わりばえしませんでした。今は3泊4日ですが、小生の頃は4泊5日でした。
 そもそも修学旅行はいつ頃始まったかというと、明治25年(1892)に文部省で修学旅行奨励の訓令が文部大臣から出されています。
 しかし精神鍛錬の軍隊式だったためなかなか浸透しなかったようで、明治34年(1901)頃から方針を変えて現在のような形になったといわれています。
 本校はこの面では先進的で、県立移管した明治30年(1897)年11月に3泊4日で箱根・小田原コースの修学旅行を行っています。これは『韮山中学校学友会報』に「修学旅行日誌」として残されています。
 旧制韮山中学校初代校長の小永井校長を総監として、中隊長に小松少尉を据えて生徒149人、職員11人の規模で11月10日の朝出発しています。学校を出発して山中城まで歩き、そこから箱根路を歩き、箱根神社を参拝しています。箱根に1泊し、翌朝熱湯の湧き出る小湧谷を歩き、箱根湯本を通り、早雲寺に立ち寄りました。その後早川を抜け、小田原城に到着します。その日は小田原に1泊しています。
 次の日朝、小田原を出発し、根府川を通り、熱海の伊豆山に着き、そこの尋常小学校生徒たちの出迎えを受けています。そしてそのまま熱海に宿泊しました。
 最終日は朝伊豆山神社を詣で、ここで北条政子関係の宝物を拝観しています。伊豆山から日金山へ登り、軽井沢へ下り、平井を抜けて夕方5時に学校に到着しました。
 全行程で歩いた距離は約96キロで、1日平均24キロほどでした。精神鍛錬もありましたが、韮山高校ゆかりの中世の歴史を学ぶ機会にもなっていたようです。それは北条早雲関係で、小田原城や山中城をはじめとする後北条家を辿るコースでもありました。以前もお話したように早雲は龍城山の韮山城を築城して、今の志龍講堂あたりに位置するお屋敷で亡くなっていますから、当時の生徒たちにとって歴史を体感する機会でもありました。
 何かの機会で、こうした歴史コースをウォーキングすることを企画しても面白いかもしれません。

韮山高校から大学に進学する生徒たちは例年ほぼ100%であると思います。
 世間では大抵が東京大学何人、京都大学何人…という言い方で高校の格付けをするようで、実際に週刊誌等では学校ランキング付けとして、一流大学の紹介には旧帝国大学をはじめとして私立の早慶上智、そして医大の名が挙げられるようです。
 世間に出れば関係ないと思うのですが、学閥なる言葉や同窓会の類はよく耳にしたりします。
 さて皆さんは韮山高校が慶応大学と関係が深いことをご存知でしょうか。慶応義塾大学はご存知一万円札の方が創立者ですが、以前このシリーズの最初の頃に福沢諭吉が坦庵公の薄着を真似したことを紹介したと思います。諭吉と一番関係深いのは本校創立者である柏木忠俊でしょう。おそらく両者は幕末長崎で出会っていたはずです。
 さて、諭吉が芝新銭座有馬家中屋敷を購入したのが慶応3年(1868)12月25日のことでした。すなわち慶応義塾の校舎にあたります。その2年後の暮に彼の出身の中津藩邸が類焼したため返却を求められたため、明治3年9月に隣接する江川家長屋敷を借りて塾を続行していったのです。この屋敷門こそ今日の江川邸の玄関門です。この手続きに柏木が一役買ったのでした。
 そして福沢は『英国議事院談』を訳し、忠俊に送ります。これこそ忠俊の韮山県・足柄県政の鍵となる本(バイブル)で、忠俊は議会を開設し、県下の各地域の 要求や意見を県政に生かそうと代議制を採用します。こうして伊豆の民衆の知識水準、政治意識を高めていったのでした。伊豆学校(韮山高校前身)卒業生は小田原の英学塾で学び、そうして慶応義塾に進んだのでした。英学者仁田桂次郎はこの流れで進んだ一人です。
 また、函南町大竹出身の田中鳥雄の子息萃一郎(1873~1923)は慶応義塾で学び、一旦は伊豆学校校長心得で韮山の地を踏みますが、再び慶応義塾に戻り史学科を創設します。
 おそらく今日、慶応大学の指定校推薦枠はあろうかと思いますが、長い歴史をみれば10人ぐらいは指定枠で入学させてもらってもいいのではと考える次第です。高校大学連携校として当然認められるべき歴史は刻んでいると思うんですがいかがでしょう。

韮山高校から大学に進学する生徒たちは例年ほぼ100%であると思います。
 世間では大抵が東京大学何人、京都大学何人…という言い方で高校の格付けをするようで、実際に週刊誌等では学校ランキング付けとして、一流大学の紹介には旧帝国大学をはじめとして私立の早慶上智、そして医大の名が挙げられるようです。
 世間に出れば関係ないと思うのですが、学閥なる言葉や同窓会の類はよく耳にしたりします。
 さて皆さんは韮山高校が慶応大学と関係が深いことをご存知でしょうか。慶応義塾大学はご存知一万円札の方が創立者ですが、以前このシリーズの最初の頃に福沢諭吉が坦庵公の薄着を真似したことを紹介したと思います。諭吉と一番関係深いのは本校創立者である柏木忠俊でしょう。おそらく両者は幕末長崎で出会っていたはずです。
 さて、諭吉が芝新銭座有馬家中屋敷を購入したのが慶応3年(1868)12月25日のことでした。すなわち慶応義塾の校舎にあたります。その2年後の暮に彼の出身の中津藩邸が類焼したため返却を求められたため、明治3年9月に隣接する江川家長屋敷を借りて塾を続行していったのです。この屋敷門こそ今日の江川邸の玄関門です。この手続きに柏木が一役買ったのでした。
 そして福沢は『英国議事院談』を訳し、忠俊に送ります。これこそ忠俊の韮山県・足柄県政の鍵となる本(バイブル)で、忠俊は議会を開設し、県下の各地域の 要求や意見を県政に生かそうと代議制を採用します。こうして伊豆の民衆の知識水準、政治意識を高めていったのでした。伊豆学校(韮山高校前身)卒業生は小田原の英学塾で学び、そうして慶応義塾に進んだのでした。英学者仁田桂次郎はこの流れで進んだ一人です。
 また、函南町大竹出身の田中鳥雄の子息萃一郎(1873~1923)は慶応義塾で学び、一旦は伊豆学校校長心得で韮山の地を踏みますが、再び慶応義塾に戻り史学科を創設します。
 おそらく今日、慶応大学の指定校推薦枠はあろうかと思いますが、長い歴史をみれば10人ぐらいは指定枠で入学させてもらってもいいのではと考える次第です。高校大学連携校として当然認められるべき歴史は刻んでいると思うんですがいかがでしょう。

韮山高校から大学に進学する生徒たちは例年ほぼ100%であると思います。
 世間では大抵が東京大学何人、京都大学何人…という言い方で高校の格付けをするようで、実際に週刊誌等では学校ランキング付けとして、一流大学の紹介には旧帝国大学をはじめとして私立の早慶上智、そして医大の名が挙げられるようです。
 世間に出れば関係ないと思うのですが、学閥なる言葉や同窓会の類はよく耳にしたりします。
 さて皆さんは韮山高校が慶応大学と関係が深いことをご存知でしょうか。慶応義塾大学はご存知一万円札の方が創立者ですが、以前このシリーズの最初の頃に福沢諭吉が坦庵公の薄着を真似したことを紹介したと思います。諭吉と一番関係深いのは本校創立者である柏木忠俊でしょう。おそらく両者は幕末長崎で出会っていたはずです。
 さて、諭吉が芝新銭座有馬家中屋敷を購入したのが慶応3年(1868)12月25日のことでした。すなわち慶応義塾の校舎にあたります。その2年後の暮に彼の出身の中津藩邸が類焼したため返却を求められたため、明治3年9月に隣接する江川家長屋敷を借りて塾を続行していったのです。この屋敷門こそ今日の江川邸の玄関門です。この手続きに柏木が一役買ったのでした。
 そして福沢は『英国議事院談』を訳し、忠俊に送ります。これこそ忠俊の韮山県・足柄県政の鍵となる本(バイブル)で、忠俊は議会を開設し、県下の各地域の 要求や意見を県政に生かそうと代議制を採用します。こうして伊豆の民衆の知識水準、政治意識を高めていったのでした。伊豆学校(韮山高校前身)卒業生は小田原の英学塾で学び、そうして慶応義塾に進んだのでした。英学者仁田桂次郎はこの流れで進んだ一人です。
 また、函南町大竹出身の田中鳥雄の子息萃一郎(1873~1923)は慶応義塾で学び、一旦は伊豆学校校長心得で韮山の地を踏みますが、再び慶応義塾に戻り史学科を創設します。
 おそらく今日、慶応大学の指定校推薦枠はあろうかと思いますが、長い歴史をみれば10人ぐらいは指定枠で入学させてもらってもいいのではと考える次第です。高校大学連携校として当然認められるべき歴史は刻んでいると思うんですがいかがでしょう。

 韮山高校が火災に遭ったのは明治13年(1880)5月と、昭和34年(1959)2月の2回ほどあります。このうち、前者においては校舎が全焼したために龍城小学校(現韮山小学校)の一部を借りて授業を行ったとのことですが、さて新校舎をどこに再建するかでは議論されたようでした。一つは現在地、そして三島と大仁がそれぞれ候補となり、最終的には現在地に落ち着き、それが龍城山三の丸、すなわち現在のソフトテニスコート場でした。

 この新校舎が竣工したのが、明治15年(1882)6月ですから、今から132年前のことになります。この年の暮れには校名を町村立中学伊豆学校としました。
 4年後には、町村立伊豆学校とし、英語・数学・漢学の3学科を設置し、英学専修科を設けて本格的な英語教育を始めたのです。この年、すなわち明治19年(1886)はどのような年だったでしょうか。それは鹿鳴館時代の後期で欧化政策がとられ英語教育が推進された時代で、三島には薔花(バラ)女学校が設立した時代でもありました。
 明治21年(1888)1月に開校した私立伊豆学校では江川英武校長自らが英学を教えたとのことですが、それ以前の段階で英語教育が推進されていたことは注目されることでしょう。
 近年といいますか最近はグローバル教育の推進のもと、英語教育が推進され小学校でも英語を学ぼうという時代になっていますが、行き着く先は会話力の向上により、英語での日常会話が流暢にこなせることが目標となってきているようです。
 当時は会話能力を求めるよりもむしろ、英語読解力を高めることに主眼が置かれ、他教科も横断的に英書を読んで数学を解いたり、理科を学んだりしたようでした。英学専修科とはまさにそのコース制を取り入れたものでしょう。
 この英学専修科は小田原にもあり、ここを経由して慶応義塾で英学を究めるのが一つのパターンだったようです。田方農林学校設置者の仁田大八郎の叔父にあたる仁田桂次郎はこうした経歴で学んだ一人で、後に「新策」と題して英学の重要性を私立伊豆学校に提言しています。
 小生は英語ができなくて一浪を余儀なくされた一人ですが、後年海外へ行って英会話の重要性を身をもって知りましたので、スピードラーニングとまではいきませんが、英会話は今も必要かなと思う次第です。

 韮山高校が火災に遭ったのは明治13年(1880)5月と、昭和34年(1959)2月の2回ほどあります。このうち、前者においては校舎が全焼したために龍城小学校(現韮山小学校)の一部を借りて授業を行ったとのことですが、さて新校舎をどこに再建するかでは議論されたようでした。一つは現在地、そして三島と大仁がそれぞれ候補となり、最終的には現在地に落ち着き、それが龍城山三の丸、すなわち現在のソフトテニスコート場でした。

 この新校舎が竣工したのが、明治15年(1882)6月ですから、今から132年前のことになります。この年の暮れには校名を町村立中学伊豆学校としました。
 4年後には、町村立伊豆学校とし、英語・数学・漢学の3学科を設置し、英学専修科を設けて本格的な英語教育を始めたのです。この年、すなわち明治19年(1886)はどのような年だったでしょうか。それは鹿鳴館時代の後期で欧化政策がとられ英語教育が推進された時代で、三島には薔花(バラ)女学校が設立した時代でもありました。
 明治21年(1888)1月に開校した私立伊豆学校では江川英武校長自らが英学を教えたとのことですが、それ以前の段階で英語教育が推進されていたことは注目されることでしょう。
 近年といいますか最近はグローバル教育の推進のもと、英語教育が推進され小学校でも英語を学ぼうという時代になっていますが、行き着く先は会話力の向上により、英語での日常会話が流暢にこなせることが目標となってきているようです。
 当時は会話能力を求めるよりもむしろ、英語読解力を高めることに主眼が置かれ、他教科も横断的に英書を読んで数学を解いたり、理科を学んだりしたようでした。英学専修科とはまさにそのコース制を取り入れたものでしょう。
 この英学専修科は小田原にもあり、ここを経由して慶応義塾で英学を究めるのが一つのパターンだったようです。田方農林学校設置者の仁田大八郎の叔父にあたる仁田桂次郎はこうした経歴で学んだ一人で、後に「新策」と題して英学の重要性を私立伊豆学校に提言しています。
 小生は英語ができなくて一浪を余儀なくされた一人ですが、後年海外へ行って英会話の重要性を身をもって知りましたので、スピードラーニングとまではいきませんが、英会話は今も必要かなと思う次第です。

 韮山高校が火災に遭ったのは明治13年(1880)5月と、昭和34年(1959)2月の2回ほどあります。このうち、前者においては校舎が全焼したために龍城小学校(現韮山小学校)の一部を借りて授業を行ったとのことですが、さて新校舎をどこに再建するかでは議論されたようでした。一つは現在地、そして三島と大仁がそれぞれ候補となり、最終的には現在地に落ち着き、それが龍城山三の丸、すなわち現在のソフトテニスコート場でした。

 この新校舎が竣工したのが、明治15年(1882)6月ですから、今から132年前のことになります。この年の暮れには校名を町村立中学伊豆学校としました。
 4年後には、町村立伊豆学校とし、英語・数学・漢学の3学科を設置し、英学専修科を設けて本格的な英語教育を始めたのです。この年、すなわち明治19年(1886)はどのような年だったでしょうか。それは鹿鳴館時代の後期で欧化政策がとられ英語教育が推進された時代で、三島には薔花(バラ)女学校が設立した時代でもありました。
 明治21年(1888)1月に開校した私立伊豆学校では江川英武校長自らが英学を教えたとのことですが、それ以前の段階で英語教育が推進されていたことは注目されることでしょう。
 近年といいますか最近はグローバル教育の推進のもと、英語教育が推進され小学校でも英語を学ぼうという時代になっていますが、行き着く先は会話力の向上により、英語での日常会話が流暢にこなせることが目標となってきているようです。
 当時は会話能力を求めるよりもむしろ、英語読解力を高めることに主眼が置かれ、他教科も横断的に英書を読んで数学を解いたり、理科を学んだりしたようでした。英学専修科とはまさにそのコース制を取り入れたものでしょう。
 この英学専修科は小田原にもあり、ここを経由して慶応義塾で英学を究めるのが一つのパターンだったようです。田方農林学校設置者の仁田大八郎の叔父にあたる仁田桂次郎はこうした経歴で学んだ一人で、後に「新策」と題して英学の重要性を私立伊豆学校に提言しています。
 小生は英語ができなくて一浪を余儀なくされた一人ですが、後年海外へ行って英会話の重要性を身をもって知りましたので、スピードラーニングとまではいきませんが、英会話は今も必要かなと思う次第です。

 

 

 坦庵公が質素倹約を旨としていたことは、よく知られています。屋敷の畳はすりきれてぼろぼろであったとか、衣服も木綿で、食事も一汁一菜であったといいます。

 これは以前にもお伝えしましたが、冬場は袷(あわせ)1枚で過ごして、火鉢を使わなかったということで、当時中津藩(大分県)の少年福沢諭吉が、それに挑戦したことがあったくらいでした。
 その根底には二宮尊徳(1787~1856)の報徳思想が入っていたと思います。報徳思想には勤労や分度というのがあり、これは勤労することで日常のすべての行動が誠の状態から行われるため、当然それが消費活動にも現れることになります。そして無駄がなくなり、贅沢を自ずから慎むようになる。これが分度と呼ばれます。つまり、分度とはけちをすることではなく、至誠から勤労した結果として自然と使わざるをえないものができ、他のものは残すということを意味します。
 少々哲学的な表現になりましたが、剰余したものは貯蓄をしていくという、このサイクルを尊徳は頑なに守りらせました。おかげで尊徳の指導した地域はどこも必ず財政が安定することから、彼は各藩からひっぱりだことなったのです。
 坦庵公も韮山の多田家の借財整理に頭を悩まし、さっそく尊徳公にお願いし、天保11年(1840)に初めて尊徳公は静岡県の地に足を踏み入れ、多田家を指導したのでした。報徳のメッカである大日本報徳社の本部は掛川市にあり、ここでは岡田佐平次が尊徳公に師事し、報徳精神を同地にもたらしたのですが、尊徳公本人は掛川には訪れていません。唯一訪れたのが韮山の地だけなのです。
 しかし、坦庵公は倹約と吝嗇(けち)とは区別していました。1850年にイギリスのマリーナ号が下田港に入港してきた時には、高価な蜀江の錦の袴を新調して対応したといいます。
 よく本当の金持ちは、普段はつつましく、いざという時には大金を出すといいますが、まさにそれに近い形かもしれません。
 坦庵公はこうして民生を安定させたことで、「江川大明神」と呼ばれたりしましたが、贅沢になれきってしまった方は是非参考にしていただきたいと思います。

 

 

 坦庵公が質素倹約を旨としていたことは、よく知られています。屋敷の畳はすりきれてぼろぼろであったとか、衣服も木綿で、食事も一汁一菜であったといいます。

 これは以前にもお伝えしましたが、冬場は袷(あわせ)1枚で過ごして、火鉢を使わなかったということで、当時中津藩(大分県)の少年福沢諭吉が、それに挑戦したことがあったくらいでした。
 その根底には二宮尊徳(1787~1856)の報徳思想が入っていたと思います。報徳思想には勤労や分度というのがあり、これは勤労することで日常のすべての行動が誠の状態から行われるため、当然それが消費活動にも現れることになります。そして無駄がなくなり、贅沢を自ずから慎むようになる。これが分度と呼ばれます。つまり、分度とはけちをすることではなく、至誠から勤労した結果として自然と使わざるをえないものができ、他のものは残すということを意味します。
 少々哲学的な表現になりましたが、剰余したものは貯蓄をしていくという、このサイクルを尊徳は頑なに守りらせました。おかげで尊徳の指導した地域はどこも必ず財政が安定することから、彼は各藩からひっぱりだことなったのです。
 坦庵公も韮山の多田家の借財整理に頭を悩まし、さっそく尊徳公にお願いし、天保11年(1840)に初めて尊徳公は静岡県の地に足を踏み入れ、多田家を指導したのでした。報徳のメッカである大日本報徳社の本部は掛川市にあり、ここでは岡田佐平次が尊徳公に師事し、報徳精神を同地にもたらしたのですが、尊徳公本人は掛川には訪れていません。唯一訪れたのが韮山の地だけなのです。
 しかし、坦庵公は倹約と吝嗇(けち)とは区別していました。1850年にイギリスのマリーナ号が下田港に入港してきた時には、高価な蜀江の錦の袴を新調して対応したといいます。
 よく本当の金持ちは、普段はつつましく、いざという時には大金を出すといいますが、まさにそれに近い形かもしれません。
 坦庵公はこうして民生を安定させたことで、「江川大明神」と呼ばれたりしましたが、贅沢になれきってしまった方は是非参考にしていただきたいと思います。

 

 

 坦庵公が質素倹約を旨としていたことは、よく知られています。屋敷の畳はすりきれてぼろぼろであったとか、衣服も木綿で、食事も一汁一菜であったといいます。

 これは以前にもお伝えしましたが、冬場は袷(あわせ)1枚で過ごして、火鉢を使わなかったということで、当時中津藩(大分県)の少年福沢諭吉が、それに挑戦したことがあったくらいでした。
 その根底には二宮尊徳(1787~1856)の報徳思想が入っていたと思います。報徳思想には勤労や分度というのがあり、これは勤労することで日常のすべての行動が誠の状態から行われるため、当然それが消費活動にも現れることになります。そして無駄がなくなり、贅沢を自ずから慎むようになる。これが分度と呼ばれます。つまり、分度とはけちをすることではなく、至誠から勤労した結果として自然と使わざるをえないものができ、他のものは残すということを意味します。
 少々哲学的な表現になりましたが、剰余したものは貯蓄をしていくという、このサイクルを尊徳は頑なに守りらせました。おかげで尊徳の指導した地域はどこも必ず財政が安定することから、彼は各藩からひっぱりだことなったのです。
 坦庵公も韮山の多田家の借財整理に頭を悩まし、さっそく尊徳公にお願いし、天保11年(1840)に初めて尊徳公は静岡県の地に足を踏み入れ、多田家を指導したのでした。報徳のメッカである大日本報徳社の本部は掛川市にあり、ここでは岡田佐平次が尊徳公に師事し、報徳精神を同地にもたらしたのですが、尊徳公本人は掛川には訪れていません。唯一訪れたのが韮山の地だけなのです。
 しかし、坦庵公は倹約と吝嗇(けち)とは区別していました。1850年にイギリスのマリーナ号が下田港に入港してきた時には、高価な蜀江の錦の袴を新調して対応したといいます。
 よく本当の金持ちは、普段はつつましく、いざという時には大金を出すといいますが、まさにそれに近い形かもしれません。
 坦庵公はこうして民生を安定させたことで、「江川大明神」と呼ばれたりしましたが、贅沢になれきってしまった方は是非参考にしていただきたいと思います。

  

戦前の胸像 

 韮山高校の校門をくぐって校舎側へ行かず、左の体育館入口の方へ歩いて行くと坦庵公の胸像が立っています。本校の創立者というよりも学祖様ですので、多少なりともそこに刻まれている文章は読んでおいてもいいでしょう。次のように書かれています。

 江川太郎左衛門英龍先生資性英邁人格高潔邦家至寳之偉人矣以憂國濟世之至誠夙究東西學術之深奥而施諸普一般即自兵制鑄砲外交海防至教育医術悉為時代開拓之先陣矣寔當時一方之長城也其為代官也質素剛健中正公平勤勉自疆以躬垂範徳化洽於郷國可謂治國經世之亀鑑也亦復孝忠之心殊敦厚虔々敬神帰依佛法深信其師敬愛無變其意志強毅學不倦行不懈孜々烈々忍持久々精勵惟勤可謂亦教學修養之良師也本校十五回卒業生佐野忠司君寄附建設本胸像及竣工陳所懐曰供母校生徒諸君之教養文部大臣          以為美舉題字之諸子斯幸接其英姿當得薫染感化美嗣偉人也

     昭和十四年一月    静岡縣立韮山中學校長山本幸雄撰  同教師彦坂繁三郎書

 文部大臣の名前がありませんが、おそらく荒木貞夫ではないでしょうか。

 この胸像は昭和14年1月16日の坦庵公命日に除幕式が行われ、澤田政廣による作品でした。台座は第27回目で述べた労作教育の作品です。胸像寄贈者は佐野美術館を創立した佐野隆一の弟の忠司で、二人とも本校で学んでいますが、隆一は野村証券の前身の大坂屋証券の専務取締役を務めた人物でした。
 ところが戦時中に銅像等の非常回収により坦庵公胸像は供出されてしまいます。戦後再び澤田政廣の手により胸像が彫られ、昭和28年6月7日に除幕式が行われました。澤田政廣は本校で学び文化勲章を受賞した有名な芸術家です。

蓮池の周りには他にも開学百年碑や講道館韮山分場の碑など幾つか碑が立っています。
なかなか気付きませんが、意外な歴史が潜んでいたりします。

  

戦前の胸像 

 韮山高校の校門をくぐって校舎側へ行かず、左の体育館入口の方へ歩いて行くと坦庵公の胸像が立っています。本校の創立者というよりも学祖様ですので、多少なりともそこに刻まれている文章は読んでおいてもいいでしょう。次のように書かれています。

 江川太郎左衛門英龍先生資性英邁人格高潔邦家至寳之偉人矣以憂國濟世之至誠夙究東西學術之深奥而施諸普一般即自兵制鑄砲外交海防至教育医術悉為時代開拓之先陣矣寔當時一方之長城也其為代官也質素剛健中正公平勤勉自疆以躬垂範徳化洽於郷國可謂治國經世之亀鑑也亦復孝忠之心殊敦厚虔々敬神帰依佛法深信其師敬愛無變其意志強毅學不倦行不懈孜々烈々忍持久々精勵惟勤可謂亦教學修養之良師也本校十五回卒業生佐野忠司君寄附建設本胸像及竣工陳所懐曰供母校生徒諸君之教養文部大臣          以為美舉題字之諸子斯幸接其英姿當得薫染感化美嗣偉人也

     昭和十四年一月    静岡縣立韮山中學校長山本幸雄撰  同教師彦坂繁三郎書

 文部大臣の名前がありませんが、おそらく荒木貞夫ではないでしょうか。

 この胸像は昭和14年1月16日の坦庵公命日に除幕式が行われ、澤田政廣による作品でした。台座は第27回目で述べた労作教育の作品です。胸像寄贈者は佐野美術館を創立した佐野隆一の弟の忠司で、二人とも本校で学んでいますが、隆一は野村証券の前身の大坂屋証券の専務取締役を務めた人物でした。
 ところが戦時中に銅像等の非常回収により坦庵公胸像は供出されてしまいます。戦後再び澤田政廣の手により胸像が彫られ、昭和28年6月7日に除幕式が行われました。澤田政廣は本校で学び文化勲章を受賞した有名な芸術家です。

蓮池の周りには他にも開学百年碑や講道館韮山分場の碑など幾つか碑が立っています。
なかなか気付きませんが、意外な歴史が潜んでいたりします。

  

戦前の胸像 

 韮山高校の校門をくぐって校舎側へ行かず、左の体育館入口の方へ歩いて行くと坦庵公の胸像が立っています。本校の創立者というよりも学祖様ですので、多少なりともそこに刻まれている文章は読んでおいてもいいでしょう。次のように書かれています。

 江川太郎左衛門英龍先生資性英邁人格高潔邦家至寳之偉人矣以憂國濟世之至誠夙究東西學術之深奥而施諸普一般即自兵制鑄砲外交海防至教育医術悉為時代開拓之先陣矣寔當時一方之長城也其為代官也質素剛健中正公平勤勉自疆以躬垂範徳化洽於郷國可謂治國經世之亀鑑也亦復孝忠之心殊敦厚虔々敬神帰依佛法深信其師敬愛無變其意志強毅學不倦行不懈孜々烈々忍持久々精勵惟勤可謂亦教學修養之良師也本校十五回卒業生佐野忠司君寄附建設本胸像及竣工陳所懐曰供母校生徒諸君之教養文部大臣          以為美舉題字之諸子斯幸接其英姿當得薫染感化美嗣偉人也

     昭和十四年一月    静岡縣立韮山中學校長山本幸雄撰  同教師彦坂繁三郎書

 文部大臣の名前がありませんが、おそらく荒木貞夫ではないでしょうか。

 この胸像は昭和14年1月16日の坦庵公命日に除幕式が行われ、澤田政廣による作品でした。台座は第27回目で述べた労作教育の作品です。胸像寄贈者は佐野美術館を創立した佐野隆一の弟の忠司で、二人とも本校で学んでいますが、隆一は野村証券の前身の大坂屋証券の専務取締役を務めた人物でした。
 ところが戦時中に銅像等の非常回収により坦庵公胸像は供出されてしまいます。戦後再び澤田政廣の手により胸像が彫られ、昭和28年6月7日に除幕式が行われました。澤田政廣は本校で学び文化勲章を受賞した有名な芸術家です。

蓮池の周りには他にも開学百年碑や講道館韮山分場の碑など幾つか碑が立っています。
なかなか気付きませんが、意外な歴史が潜んでいたりします。

 江川坦庵公が亡くなられて160年近くたちます。亡くなられたのは安政2(1855)年1月16日のことです。しかしこれは旧暦ですので、新暦では3月4日となります。この頃は高校入試の頃ですから、大変冷え込む時期です。

 若い頃から剣道をはじめとして、山猟など猛訓練をして体を鍛えてきたのですが、何しろこの時期あまりにハードスケジュールでした。ペリー来航はこれより1年半ほど前になりますが、かねてから海防について幕府に建議していましたので、すぐに勘定吟味役に引き立てられ、幕府政治に参画するように要請されます。

 そこで江戸と韮山を行ったり来たりしますが、翌年1月再びペリーが来航します。あまりの多忙で3月には江戸城で頭痛に襲われ、その月は病臥しています。5月にも同様の症状がみられ、そんな中で今度はロシアからプチャーチンが来航します。

 ところがその年の11月に安政の大地震が起き、プチャーチンの乗るディアナ号は船底を大破します。修理のため戸田へ出帆している途中富士で座礁し、今度はロシア船建造ということになりました。

 これら陣頭指揮やら調査やらで下田へ行ったり戸田へ行ったりするわけです。さすがに12月には風邪でダウンしてしまいます。かなり重症なのですが、その状況を幕府は知ってかしらずか、江戸へ来るようにとの連絡が入り、生真面目な坦庵は出かけるのです。

 家臣が止めるのもきかず韮山を出発しますが、当然のことながら小田原で風邪が悪化し、江戸に着くや寝たきりとなりました。

 体が弱まっている時の風邪ですから、おそらく今でいうインフルエンザに近い症状で、肺炎も併発したようです。こうした中で坦庵公は正月を超えて亡くなられました。

 時の筆頭老中であった阿部正弘は大変悲嘆し、次の歌を詠みます。

  空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽せし

 坦庵の柩は25日に到着し、菩提寺の本立寺に葬られたのでした。

 小生が在学中は、1月16日近辺のLHRの授業中にお墓参りに行った記憶がありますが、最近は1年生の春の遠足の時にお墓参りをしているようです。

 改めて坦庵公に合掌です。

 江川坦庵公が亡くなられて160年近くたちます。亡くなられたのは安政2(1855)年1月16日のことです。しかしこれは旧暦ですので、新暦では3月4日となります。この頃は高校入試の頃ですから、大変冷え込む時期です。

 若い頃から剣道をはじめとして、山猟など猛訓練をして体を鍛えてきたのですが、何しろこの時期あまりにハードスケジュールでした。ペリー来航はこれより1年半ほど前になりますが、かねてから海防について幕府に建議していましたので、すぐに勘定吟味役に引き立てられ、幕府政治に参画するように要請されます。

 そこで江戸と韮山を行ったり来たりしますが、翌年1月再びペリーが来航します。あまりの多忙で3月には江戸城で頭痛に襲われ、その月は病臥しています。5月にも同様の症状がみられ、そんな中で今度はロシアからプチャーチンが来航します。

 ところがその年の11月に安政の大地震が起き、プチャーチンの乗るディアナ号は船底を大破します。修理のため戸田へ出帆している途中富士で座礁し、今度はロシア船建造ということになりました。

 これら陣頭指揮やら調査やらで下田へ行ったり戸田へ行ったりするわけです。さすがに12月には風邪でダウンしてしまいます。かなり重症なのですが、その状況を幕府は知ってかしらずか、江戸へ来るようにとの連絡が入り、生真面目な坦庵は出かけるのです。

 家臣が止めるのもきかず韮山を出発しますが、当然のことながら小田原で風邪が悪化し、江戸に着くや寝たきりとなりました。

 体が弱まっている時の風邪ですから、おそらく今でいうインフルエンザに近い症状で、肺炎も併発したようです。こうした中で坦庵公は正月を超えて亡くなられました。

 時の筆頭老中であった阿部正弘は大変悲嘆し、次の歌を詠みます。

  空蝉は限りこそあれ真心にたてし勲は世々に朽せし

 坦庵の柩は25日に到着し、菩提寺の本立寺に葬られたのでした。

 小生が在学中は、1月16日近辺のLHRの授業中にお墓参りに行った記憶がありますが、最近は1年生の春の遠足の時にお墓参りをしているようです。

 改めて坦庵公に合掌です。

 江川坦庵公が亡くなられて160年近くたちます。亡くなられたのは安政2(1855)年1月16日のことです。しかしこれは旧暦ですので、新暦では3月4日となります。この頃は高校入試の頃ですから、大変冷え込む時期です。

 若い頃から剣道をはじめとして、山猟など猛訓練をして体を鍛えてきたのですが、何しろこの時期あまりにハードスケジュールでした。ペリー来航はこれより1年半ほど前になりますが、かねてから海防について幕府に建議していましたので、すぐに勘定吟味役に引き立てられ、幕府政治に参画するように要請されます。

 そこで江戸と韮山を行ったり来たりしますが、翌年1月再びペリーが来航します。あまりの多忙で3月には江戸城で頭痛に襲われ、その月は病臥しています。5月にも同様の症状がみられ、そんな中で今度はロシアからプチャーチンが来航します。

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事務局から

同窓会本部年会費(2,000円)
ゆうちょ銀通帳口座からの自動引落とし平成23年度会費から

導入手続き書類を送付いたしますので、事務局にご連絡を!
 

◆同窓会の活動は会員の皆様からの年会費とご寄付により

 実現しています。年会費の納入をお忘れなくお願いします。
 

◆最近、学校事務室・同窓会を騙って、同窓生の電話番号(携帯)や現住所等の問い合わせをする電話がかかっているようです。
同窓会事務局では通常、同窓生の消息確認作業などは文書で行っており、緊急の場合は事務局に掛け直していただく方法をとっています。

ご注意ください。
 

■お問い合わせは同窓会事務局■
〒410-2143 静岡県伊豆の国市韮山韮山229 有慶館内
TEL:055-940-0770

FAX:055-949-6616
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