第5回 韮高同窓会東北応援ボランティアバス


2016/5/28〜29 実施 (32名参加)













高11回卒  石井 徹哉
      第5回東北応援ボラバス参加記

第5回の東北応援ボラバスが実現し本当によかったです。5年間続けることは大変なこと、幹事さんをはじめ参加した皆様に感謝です。
 この旅で感じた事、心に残っていることを報告します。
1.伊里前浜で
 帰りにいただいた昔の伊里前のDVDの冒頭の町の全景を何度も停止して眺めました。参加する前日にPCで被災当日の動画をみて、当日の現地。
 ウタちゃん橋のひしゃげた欄干、国道バイパスの途切れた橋台、不通の鉄道線路、駅舎以外片づけられた市街地で津波被害の跡形を探すのは難しい。
 住居は高台に移す事業が進行中とのこと。仮設住宅の利用者も減ってきているようでこの旧市街地はどのように利用されていくのだろうか。海を生活の糧としそれらの施設で繁栄する伊里前をいつかもう一度訪ねたい。

2.大川小学校で
 やっと受け入れていただき、お話を聞きあらためてこの悲劇ともいうべき出来事に思いを巡らしました。
 同時に今回の災害で似たような悲劇がたくさんあることも思い浮かびます。釜石市鵜住居の防災庁舎、世界に誇るといわれた海岸防潮堤の田老集落の全滅、町長以下殉死した大槌町、町長以下10名ほどがかろうじて鉄塔にかじりつき生き残った南三陸防災センター等々。
 一方で釜石の奇跡といわれる防災センター近くの小、中学校全員の見事な避難行動。その背景にはしっかりとした防災教育があったことを見逃せない。

3.原発事故帰宅困難地域で
 遠くから眺めていた帰宅困難地域を目の当たりできました。幹事さんの努力に改めて感謝です。
 未だ10万人弱の住民が県内外で帰宅できる日を待ち、あるいは別の生活を初めている。とりわけ各住宅の入り口が閉鎖され、帰宅の目途が全く立たない帰宅困難地域の方々はどこでどんな思いで生活しているのでしょうか。困難区域は国道6号線沿いのみならずかはるかに山を越えた川俣町、飯館村にも広がっている。
 私の居住する千葉県柏市も事故当時気流に乗った放射性物質が降下し線量が増加、国の重点調査地区となり小中高等学校等では除染が実施された。その後線量は低減しているが目に見えない恐ろしさを味わった。
 天災は思わぬ地域で思わぬ形で発生する。国や地域で、そして個人も生き延びるための努力を不断に実行し結果は甘んじるしかないのでしょうか。原発などできるだけ早く始末すること。少しは防災グッズを買い込み、とにかく早く逃げる事。これが私の旅の結論です。

忘れないようにしたい。生き延びるために。

韮ボラ感想

勝又弘美(26)

 今回、初めて韮山高校同窓会主催のバスに参加しました。幹事さん始め、同窓生が知恵や力を合わせてこの企画を支えていることがよくわかりました。きめ細かい配慮が隅々まで行き届き、安心して楽しく参加できました。ありがとうございました。

 そして、5回を数える活動の中で育まれた現地との絆が、何よりもこの企画を支えていると感じました。歌津の漁師、渡辺さんは、川の清掃より、我々がそこに足を運ぶこと自体を喜んで下さっているようでした。福島の山木屋太鼓の若者たちも、我々と一緒に活動し、食事し、そして同じ平面で演奏することを楽しんでくれているようでした。大川小学校でお話しくださった紫桃さんも、震災記憶が風化していく中で、現場を訪れ遺族の方の声に耳を傾けようとすることをよしとしてくださっていました。

東日本大震災の復興はまだまだですが、5年を経過し、ボランティアの継続はむずかしくなってきます。そんな中で、こうした顔の見える交流、個と個との交流が、これからの息の長い交流を支えていくのではないかと思います。

 ところで、私にとっては福島の国道6号線沿いの光景が忘れられません。5年前の夏、建物がほとんどなく瓦礫の山に草だけが生い茂る宮城や岩手の町を見たときには、不謹慎かもしれないけれど古代の遺跡のようだと思ったものです。しかし今回見た福島の双葉町・大熊町は、建物はあるものの人の気配だけが消され、そこは時間の封印された廃墟でした。

かつて大江健三郎は「オキナワ・ノート」の中で、「沖縄の中に日本がある」と書きましたが、それに倣うならば、今、私達は「福島の中に日本がある」と言わなければなりません。なぜ福島が廃墟になったのか、他の町では同様のことが起こらないと言えるのか…。明日の世界を考えるとき、私は「オキナワ」や「フクシマ」から考えていきたいと思います。(バスの中での、沖縄出身谷口さんの言葉も胸に残っています。)

宿題を戴いた旅でした。改めて幹事さんに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。















 


昭和50年 27回卒業の宮下(浅田)裕子です。
同級生の藤本(角田)さんと参加しました。毎年企画してくれた、幹事の皆様に、感謝します。
私の総括です。

@大川小学校の悲劇
言葉は知っていましたが、実際その場に立ち遺族の方から話を聞いて頂いた記録誌を読むと、大川小学校の校庭での51分を検証して後世に伝承しなければなりません。
横浜に帰ってから、周りの人に記録誌を強制的に読んでもらっています。

A南三陸町の変貌
ボランティアバスで20125月に南三陸町の防災対策庁舎を訪ねました。その時には、津波が来た高さまで茶色に成り、それより高い所には何も無かったかの様な春の景色でした。圧倒され、その場に立ち尽くし、まるで天国と地獄であると感じました。テレビや新聞での報道で何度も見ていましたが、百聞は一見に如かずでした。
そして今年は、防災対策庁舎の高さより高い土盛りが幾つも出来て、何か異様な感じがしました。復興とは何だろうと考えます。

B国道6号線
帰宅困難地域に住まいがあるため、避難している親戚や知人がいます。
バスで6号線を下り、福島第一原子力発電所に近づくとガイガーカウンターの数値が上がるのを見て、来た甲斐があったと思いました。
帰宅した29日日曜日のNHKの特集で、廃炉への過程を放送していましたが、工程表で40年と有りました。私たちは、生きて居ない。
利益を享受した世代から、子供たちの世代に大きな宿題を残してしまいました。

高校の同級生の青木君は、福島第二原子力発電所で廃炉の仕事に携わっています。
今回、6号線を下る事をメールしましたら、出張で不在で案内が出来ないとありました。
来年、会って話を聞きたいものです。

藤本さつき(27)です。

 幹事の方々本当にお疲れ様でした。参加者の皆様、楽しく充実した2日間、どうもありがとうございました。体を使うこと(ボランティア的?)は少しでしたが、沢山のものを見て、聞いて、感じて、考える2日間でした。
 現地に実際に立ってみると、テレビや新聞の報道で知っているつもりでいたことや想像していたこととはかなり違っていて、いくつも衝撃を受けました。

5年たち、シロウオやモクズガニが戻り、海に牡蠣の養殖いかだが並び、ウニ漁も開港し、自然の回復力とそこで復興に向けて頑張っている方々の逞しさを感じる一方で、見上げるような土盛りがいたるところにあるのを見て、行政の推し進めている「復興」の形は、自然との共存、共栄の中で営まれていた地域の生活を必ずしも復興するものではないように思えました。

もちろん都市部では、都市機能の回復と安全性の確保など必要ですが、自然豊かで、変化に富んだ海岸線を持ち、それぞれの湾ごとの文化や伝統、生態系の単位で暮らしていたと思われる場所に、津波対策という名目で、一律に見上げるような防潮堤や堤防を作ることはただただ異様としか思えませんでした。
 今回の津波被害の大きさの原因を「想定外」とすれば、想定をもっと大きくした構造物で安全を確保すればよいということになるのでしょうが、自然災害は人間の想像をはるかに超えた規模で襲いかかってくるのが常で、構造物で自然に対抗して「絶対」の安全を築けると思うの人間の驕りです。
 また復興道路の建設も確かに鉄道が流された中で交通網の整備は重要ですが、山肌を大きく削ることによる土砂崩れの危険性は考えられているのでしょうか。
 コンクリートの防潮堤とコンクリートの堤防の川しか見えないリアス式海岸を観光客は見たいと思うでしょうか。
   などなど、まず感じたのは私たちの税金が投入されている復興予算の使われ方に???でした。
  また、今後私ができることはと考えたとき、震災遺構として残された防災庁舎や大川小学校の前に立って、もしその時そこに自分がいたらどういう行動をとっただろうかと考えてみることが大事だと言い続けることかなと思いました。
 
震災を忘れないこととは、震災から学ぶこと、そして未来にその学んだことや経験を伝えていくこと。
 実際に現地に行くことはとても大切なことだと思います。
 そして災害から身を守る教育と訓練は大人も子供も皆がする必要があると強く思いました。

福島の原発の被害と影響は、気の遠くなるような先まで続くことに恐ろしさを改めて感じました。 これだけ想定外の災害が起こる日本です。原発は今すぐ廃炉にすべきだと強く思います。産業としてかかわっている人もいると思いますが、漏れ出た核物質は人間ではコントロールできず、最大の環境破壊を引き起こします。
 人気のない避難困難区域を通ったときに、ガイガーカウンターの数値が大きくなるのを見て、日本中の原発がもし放射能漏れを起こしたらと想像したら悪寒がはしりました。
 子供たちのためにも、政府のエネルギー政策と原発のことをしっかりと考えて声を上げなくてはと思いました。
 
 とりとめのない感想ですが以上です。

余談ですが、私の大学時代の後輩に、震災当時、南三陸町戸倉小学校長をしていた人がいます。生徒、教職員とも逃げて無事だったそうです。その後教育委員会に異動したり、現在は別の小学校の校長をしている麻生川という人です。
今回の東北ボランティアバスの話をしたところ、機会が有ったら是非お話をしたいということでした。幹事の皆さま、次回のボラバスの企画の時にはぜひご検討ください。

















藤本さま、さっそくご感想をありがとうございます。すてき . . .
様々な光景がよみがえり . . . 涙があふれてしまいました。
「一律に見上げるような防潮堤や堤防を作ることはただただ異様」
ほんとうですね。自然と調和して生きてこそ、 と思わずにいられません。

 28日の夕食のとき、牡蠣をどっさり届けてくれた若い漁師の千葉 拓(たく)さんは、ウニ漁の開口(解禁)で叶いませんでしたが、ミニコンサートに参加してくれるはずでした。
拓さんの『防潮堤の歌』を、藤本さんにも聞いていただきたかったです。
 もう3年前になりますが、その拓さんを、松葉杖のカメラマン・シギー吉田さんが取材しました。
 そのときの記事が『女性自身』のサイトにあります。
 一番下に歌も載っていますので、お時間のあるときにぜひ。

それぞれの2年目 #4「誰のための町づくりなのか」:千葉拓(27)さん

『防潮堤の歌』by千葉 拓

拓さんたちの願いもむなしく、巨大な防潮堤の工事が進んでいます。

                                            渋谷由美(高30)


先日、東北バスツアーに参加した児玉曜子(30)です。
今回初めて参加しました。

震災後間もない時期から、同級生たちが熱心に活動していることは知っていましたが、夜行バス移動で現地で作業という内容では、体力の自信がないので遠慮しておりました。
今回は現地の方との交流と応援がメインということで、思い切って参加しました。

私は初めて現地に降り立ちその場の空気に触れて、これまで映像では知っていたことが改めて自分とつながったような気がしました。

ボランティアの力仕事ができなくても、その場に行って、見ることによって、帰ってからもその土地の空気を思い出す事が出来る…それだけでも他人事ではなくなると思います。
幹事さんたちのおかげで本当に有意義な体験をさせていただきました。

韮高の卒業生の様々な得意分野を生かして、このような活動を今後も続けていきましょう。


初めて参加しました田代周子です。

参加する前は、震災から5年経った今現地の為にできる事はあるのだろうか?と考えておりました。
しかし被災者の方のお話を聞き、最も大切な私たちがすべき事は起こったことをきちんと理解し、伝えていく事だと気付きました。
メディアを経由して、被災地の様子はなんとなく耳に入ってはいましたが、実際被災者の方に伺うと隠された事実があったり。
何より、直接聞く事はとてもリアリティがあり被災者の想いも自分の事として受け止める事ができました。
他人事とは考えられなくなりました。
また、夕食後のイベントである太鼓演奏とギターライブは非常に楽しかったです。

来年もあれば、是非行きたいと思います。


幹事の皆さま、参加者の皆さま、楽しい二日間をありがとうございました。

とても充実し、かつ考えさせられる旅でした。
日ごろのガテン系の旅と違い時間の流れはゆるやかではありましたが、
だからこそ体験・感じたことも多く、本当に実り多き旅となりました。

シロウオ、うなぎ、カニにたくさんの魚が泳ぐ豊かな川。
ざわ漁では、自然の恵みを皆で分かち合うためのルールがたくさんあることを知りました。
それだけ自然からの贈り物は貴重なものだということでしょう。
自然を尊重し、どう共存していくか。
地元の人々との自然のつながり、都会では忘れられている自然のありがたさを肌で感じました。

その自然の脅威が起こした津波で犠牲となった大川小学校の子供たち。
冷たかっただろうな、寒かっただろうな…
なぜ子供たちが行き慣れた山へ逃げなかったのか。
なぜ着任の浅い先生方ばかりだったのか。
子供たちを守るという意識を全体で共有できていたのか。
話を聞けば聞くほど疑問ばかりが湧いて出てきます。

自然災害は防げるものではありません。しかし、減災はできます。
残されたものたちにできることは何か。
大人としてできること、行政がするべきこと、人任せにせず、
自分たち一人ひとりができることを考えなければならないと思いました。

そして、福島。
初めて福島へ行ったとき、自分の住む街からわずか数時間で行けるにもかかわらず、
人気のない街並みを見て言葉をなくしました。6号線沿いの街は、まさにその状態で時が止まったままでした。
いまだ家に帰れない人たちがいます。

近寄ることさえできない状態がまだ続いています。

どんなに技術が発達しても、自然をコントロールすることはできません。
私たちは、今の便利さを追求するあまり、技術力を過信しすぎたのでしょう。
今が便利ならそれでいいのか。
50
年後、100年後の未来を考えて生きなければいけないのではないか。
そしてその責任は、今を生きる私たちが担うべきではないのか。

東北へ何度か通ったにもかかわらず、まだまだ見えていないことがたくさんありました。
そして新たに気付けたこともたくさんありました。
自然の中で生かされているということ。命より大切なものはないということ。
メディアからの情報には限界があります。自分の目で見て肌で感じることが大切です。
貴重な経験をさせていただきました。

今回、大川小学校でゆっくりお話を聞けたこと、6号線をゆっくり移動できたことが自分の中で貴重な体験となっております。
ありがとうございました。
とりとめのない感想となりましたが、また皆さまとお会いできること、楽しみにしております。
                                         谷口典子