第6回 韮高同窓会 東北応援防災学習バス(通称ボガバス) 報告
 
■平成29年5月19日(金) 夜9時 有慶館前を伊豆箱根(大型)バスにて出発。
   三島市内→東名足柄S.A.→東京駅八重洲口23:30→常磐道矢田部東P.A.で
   参加者をピックアップ。

 ■20日 朝7時 気仙沼市内で朝食。8時 気仙沼「海の道」で語り部乗車、市内見学。
   10時気仙沼フェリー乗り場から気仙大島へ渡る。フェリー内では語り部の説明。
   気仙大島内を見学と昼食。13時40分フェリー発。
   14時40分バスにて気仙沼発。15時半〜南三陸町歌津着後、福幸商店街・ざわ漁見学。
   「平成の森」に宿泊。
     ◎  震災時に南三陸町立戸倉小校長・麻生川先生
             (高27)藤本さつきさんの大学時代の後輩。
        
        震災時に県立気仙沼向洋高校教頭・武田先生
            (高30)鈴木元さんの大学時代の友人。

         同窓生のご縁で、貴重な体験と教訓を聴く
      ♪♪(高30)杉山博司さんと西真洋さんのフォークライブ♪♪ 

 ■21日8時半出発、防災対策庁舎・さんさん商店街を見学。
   戸倉小跡ではバスを降りて高台までを歩いてみる。
   11時 石巻市(旧)大川小見学。
       
*大川小では昨年同様 紫桃さんに語り部をお願いした。
        説明中、私達とは別に個人で訪れた同窓生(高49)鴨田幸紀さんと遭遇
     
「今回は、仕事で仙台出張の最中時間を見つけて急遽レンタカーを確保して訪問しました。
      語り部さんが存在するのは知っていましたが、当然予約も何もしておらず。
    
当日韮高同窓会の前に別の団体が説明を受けているのをみて、是非話を聞きたいと思って飛び込んだのが、
    たまたま同窓会の回だったのでした。

    裏山にて伊豆日日新聞の記者の自己紹介が聞こえなければ気がつかなったと思います。」
 
 
   帰路、福島県を走行し浪江町役場近くの商店街に寄る。
   21時半 韮高帰着

 高11回卒〜高60回卒の同窓生と、その子、紹介者等29名参加。
 感想文を寄せてもらいましたので、掲載していきます。

■伊豆日日新聞記者(高60)勝田航平さんの記事
  【特集・連載】
  韮山高同窓会被災地奉仕バス"最後"の旅(上)
http://m.izu-np.co.jp/feature/news/20170529iz3003000015000c.html
 
  韮山高同窓会被災地奉仕バス"最後"の旅(下)
 http://izu-np.co.jp/feature/news/20170530iz3003000016000c.html

■土屋貴央さん(高39)が撮影したアルバム
https://www.dropbox.com/sh/yuv0gxa7dqbz6bx/AACYwac3Nerts33-G9NSnm3na?dl=0

 


 第6回東北防災学習応援ボランティアバスツアー感想文                   2017/10掲載
                                              27 宮下裕子

 6回のバスツアーの内、2回目と5回目と今回と三回参加しました。

 私の参加は、午前中に鶴見で仕事した後に、新幹線と仙台から高速バスで南三陸の宿舎に向かい、夕食から合流するものでした。
 そのため参加者の半分の経験しかありません。それでも震災の翌年に、南三陸町防災庁舎の遺構から周りを見回した時、津波が到達した15.5mの地点まで草木は茶色く枯れ果て、それから上の地点は緑に覆われて住宅が見えました。そのラインは、あたかも天国と地獄の境の様でした。

 昨年は、南相馬から国道6号を通過した時には、帰還困難区域に入ると、そこは時間が止まったままでした。

 テレビなどメディアからの情報より、自分の目で見て肌で感じる事がいかに大事であるか。まさに、「百聞は一見に如かず」です。

 今年は、南三陸町立戸倉小学校の当時の校長先生から話を伺って、避難した高台と神社を訪問し、津波の恐ろしさとその時の判断を実体験しました。
 その後、石巻市立大川小学校を訪問し遺族の話を伺い、逃れる事がなかった裏山に登りました。なぜ、裏山に登る選択をしなかったのか。マニュアルには無い状況での判断の難しさを感じました。

 緊急事態で、的確な行動を取れるか否かで、生命の明暗を分けます。それを逃げ遅れの心理「正常性バイアス」と呼ぶそうです。
「正常性バイアス」は、人間が予期しない事態に対峙した時、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働きであるそうです。
この「正常性バイアス」と言う心理が災害時や緊急事態に、働く事を知って、防災訓練や子供達に教訓として残して行くべきであると思いました。

 津波に関しては、東南海地震地震の発生時は、伊豆半島の西海岸、南伊豆、沼津市などが危険地域となるでしょう。

 静岡県の高校や地域が集まって東北を訪れ、今後の防災や減災に向けて、連携を取る必要があるのではないかと感じました。


感想                  
30回卒 土屋 知省(ボガバス代表幹事)

「復興」は進む……が、

 気仙沼市内は、復興工事に伴う頻繁な道路切り替えで地元ガイドでも迷ってしまう、甲斐小泉では廃棄物の山が大規模なトマト栽培のハウスの列に変わっている、南三陸では高台が切り開かれて新しい住宅が建てられ、お洒落な商店街が盛り土上に開店している……今年の被災地は、一年前と比べても風景が大きく変わり、「復興」が進んでいるように見えた。そう、そうした外見を「復興」と呼ぶのは構わない。ただ、私は、3年前、阪神淡路大震災を想う神戸でのイベントの際に行われた対談における、新長田商店街代表の言葉を思い出す。
 「将来が見えず不安の中、遮二無二毎日を過ごして、少し先が見えたかな、という気持ちになれたのは、十年後だった」。阪神淡路大震災では、火災により新長田の商店街は全焼し、アーケード付きで道の広い立派な商店街が再建された。しかし、転出する店主も出て、震災前の賑わいを取り戻すため、集客に苦労する日々だった。そんな話を彼は、今回我々がお世話になった気仙大島のKさんに対して、震災の経験者として助言した。
 事実、東日本大震災から6年が経過した今、Kさんは、本拠地大島で店を再開すべく準備している。南三陸歌津の牡蠣漁師のCさんは、(先述の)トマトのハウスのように大きな資本が入ったところはいいが、地場の中小は安定せず、この冬もノロウイルス騒ぎで牡蠣の出荷が滞った、とこぼす。川漁師のWさんは、商店街についてはきれいになったが、人が入っていないよ、だから、魚屋さんは新しくケーキやアイスクリームを始めた、という。
 今回、最後に訪ねた福島県の浪江町は、この3月末日、漸く避難指示が解除されて、町役場も二本松市から戻ってきた。しかし、町に戻ってきている人は役場の200名ほどと住民50名ほど。町に人が見られず、コンビニも週末は閉店するという状況。津波に見舞われた地域とは異なり、町は外見上全く壊れていないが、6年間のブランクは大きい。国や県による公的なセイフティネットの役割は大きいが、人々の生活を元に戻すにはほど遠い。浪江の仮設商店街でお茶を飲んでいた住民の方は、我々を目にとめて、来てくれてありがたい、町の活気を取り戻したい、と特に声をかけてくれた。
 物的な施設整備は、明らかに「復興」の一部であるが、人々の生活があり、賑わいがあってこそ、まちの再建と言えると思う。
 伊豆半島も地震や津波に無縁でない。その際、町や集落がどうなり、どう立ち直っていくのか、それをどう助けられるのか、知っておくのも悪くない。

災害のことを日頃から考える

 今回は、気仙沼市向洋高校、南三陸町戸倉小学校、石巻市大川小学校を訪問し、当時の先生方やご遺族の方の貴重なお話を伺うことができた。特に先生方は、参加者の御縁でお願いすることができたもので、韮高関係者の人脈の広さを感じた。
 児童、生徒を津波から守った二人の先生のお話に共通していることはいくつかあるが、まず、日頃から津波災害のことを想定して、どうするか考えていたことがある。向洋高校のT教頭先生は、地震で津波が予想されたら、生徒を直ちに避難させることと、成績のもとになる指導要録を守ることをしようと決めていた。戸倉小学校のA校長先生は、震災2年前の就任時から、災害マニュアル、避難方法について議論し準備していた。
 2つ目には、両者とも、地元出身者や地域の伝承など地域の事情を尊重していた。T先生は、生徒を昔から避難拠点になっている高台のお寺に避難させた。A先生は、事前の議論では、個人的には、校舎屋上に避難させるという意見であったが、ことに望んでは、地元出身の先生の伝承に基づく意見を容れて、400m離れた高台への避難を決断した。
 3つ目には、両者とも、災害に際しては、あらゆるリスクを意識し、臆病に行動すべきという意見であった。T先生は、講演で、デューク東郷(ゴルゴ13)の助言「(安全対策において重要なのは)10%の才能と20%の努力、そして30%の臆病さ、残る40%は情報」(外務省「ゴルゴ13の中堅・中小企業向け海外安全対策マニュアル」第5話)を引用され、A先生は、避難地を決定する際にも、移動中に津波に襲われるリスクと校舎より高い津波が来るリスクを計りにかけていた。
 これに対して、児童、先生方の多くの人命が失われた大川小学校の場合はどうだろう(もっとも、指定された避難所で多くの方が被災した例はここに限らないが)。400メートル高台が離れていた戸倉小学校に比べれば、数分で逃げることができた裏山があった。他方、隣の公民館に集まった地元の人は解散して山に登って助かった者が多かった。そうした中で、地震後、児童が校庭に集合してから津波が来るまで45分間、大川小学校では、A先生が心配したような津波の短時間での襲来を考慮した迅速な対応も、高所への避難も行われなかった。裁判になっており法的な評価はわからないが、津波を想定した対応が事前に検討されていたか、悪い事態を予想して臆病に行動したかは、大いに疑問がある。向洋高校、戸倉小学校は宮城県沖地震のハザードマップの津波浸水区域に立地しており、大川小学校は津波浸水区域となっていなかったという違いがあり、津波時の対応を事前に検討することが制度とされていたという違いはあったが、それは別としても、津波のことを日頃考えているのといないのではこんなに違いがあるということを示しているように思う。
 東海地震の30年以内の発生確率は87%、津波の浸水区域には伊豆半島沿岸の東海岸、西海岸の市町全ての市街地が含まれており、これら地域には韮山高校に通学している生徒の家もある。やはり、地震・津波時の対応を日頃から考えておく意味は大きいと思う。
以上。


第六回 東北応援 防災学習バスに参加して
             第11回卒   石井徹哉

初めに
 東日本大震災発生から7年、第2回から参加、個人の現地行きを含め岩手から福島までの光景が脳裏に浮かび、復興事業で大きく変化する現地報道からそれなりに復旧、復興が進んでいるのではないか。原発事故被災地域、とりわけ最近の避難指示解除地域の現状が心配で今回も参加することにしました。


気仙沼から南三陸町へ(5月21日)
  常磐道、建設が進む南三陸道から改修が進められる海沿いの国道を走り、気仙沼市へ。
復興が大々的に進む国内有数の水産基地を,燃料タンク被災による大火災を思い浮かべながらガイドの説明に耳を傾ける。フェリーで気仙大島にわたり山頂からきれいなきれいな砂浜や入り江を眺める。死者31名、家屋流出130戸。船舶流出700隻という被災の事実を知らなければなんと美しい自然か。
  南三陸町伊里前浜は狭い浜が数メートルの盛り土と河川堤防工事が実施中で、商店街も盛り土上に移転されている。白魚漁は改修中の河川内で頑張っているが「ウタちゃん橋」は近寄れず来年には姿を消しそうだ。カキ養殖の千葉さんの作業場に寄るが人影はなくお休み?。しかし周辺を数メートルの盛り土に囲まれた作業場は異様な風景。千葉さんにお会いした参加者の話では思うように進まない復興に疲れてしまったとの当人の弁。云うべき言葉もない。
  宿泊所平成の森での夕食後,当時の向洋高校、戸倉小の先生から地震津波時の対応、とるべき方策について経験者としての貴重な報告とアドバイスをいただく。

防災対策庁舎、戸倉小跡、大川小そして浪江町へ(5月22日)
  防災対策庁舎のある旧志津川町、海抜1メートル前後の全滅した市街地も見上げるような盛土と大型ショッピングセンターの工事が全盛。遠くから対策庁舎に手を合わせる。

  戸倉小へ。国道の改良工事で先生の案内がなければ小学校も集落もどこにあったのか見当もつかない。3階建ての校舎の屋上まですべて水没。的確な判断で高台へ、そして五十鈴神社への避難で被害を最小限に食い止めた関係者の日ごろからの努力、的確な判断と行動には敬服。またここに社を構えるまでに被ったこの地域の被災の歴史とその凄まじさを想像した。
  
(参考文献)天災から日本史を読み直す:磯田道史。中公新書。

  大川小へ。昨年に引き続き娘さんをなくされ、真相究明の中心メンバーである紫桃さんに全体、現況の説明を聞く。どうしてそこに登って避難しなかったのかの至近の山道を登ってみる。事故時、及びその後の関係者の対応。十分な機能を果たせず終了した事故検証委員会。そして裁判へ、あれだけ大きな津波が来るとの情報に的確に避難行動をとれなかった学校の過失を認めた一審判決、二審係争中。 軽々な感想を述べることは慎まなければならないが、学校を含め地域全体の地震津波対策の不備、地方自治体、生存者を含め関係者の真相解明対応への疑問、そのことによる関係者、地域に与えた深刻な亀裂の修復は、教育関係を含め、地方自治体が取り組むべき最大の課題、行政組織の先導なしには解決できない課題だと思う。
 (参考文献)石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する 池上正樹、他 ポプラ社
         小さな命の意味を考える 第2版 同会発行

  そして浪江町役場前に。本年3月末日をもって居住制限区域,及び避難指示解除準備区域の避難指示が解除され(町全体から見れば部分的であるが多くの町民の居住地区)、役場機能の一部が再開された。しかし一部に屋敷内をコンクリートやシートで被覆する等の帰宅準備の動きはみられるが、ほとんどの建物が閉じられた街に車両通行の少ない国道6号線の赤信号の点滅が異様な光景を作り出している。
 町の調査によれば町民のうち、青壮年以下の70%以上、高齢者でも半数以上が戻らない戻れないとの意向を示し、すぐ戻りたいは20%以下である。家の周辺のみの除染で避難解除しても問題解決の一歩にもなっていない現実。避難解除で復興に向けて少しは動き出しているのではとの甘い期待は吹き飛んだ。原発事故の被害、犠牲の大きさと復興の困難さ、必要な膨大な時間と費用をあらためて思い知らされる締めくくりでした。

終わりに
 震災発生から時間の経過で参加者減少の困難な条件下で、第6回の東北行を実現させた幹事の皆様に感謝、感謝です。
 地震津波被災地の復興、とりわけ個々の生活者レベルの再建は仮設から移りやっと踏み出した段階。福島の原発事故被災地域は復興の方向性さえ見えないレベルだと思います。
 
 東北行きもいつかは区切りをつけるときが来るとの思いと、まだまで被災から立ち直れない現地を忘れないために、また自然災害、原発問題への取り組みの怠慢を見つめ直す機会として東北行きは続けようと思う。


 
感想〜第六回東北応援防災学習バスに参加して〜
     高11回卒大野洋

 この企画に参加させてもらって今年で5回目となるが、行く度に景色が変わって行き確実に復興は進んでいることを実感出来る。しかし、それはハード面に限ってと言うことではないだろうか。

 例えば、各地の復興商店街、場所は津波からは安全な場所に移り、建物も確かに立派なものになった。しかし、お店は日用品を販売する店が多く、お土産品の様な我々の様な外部から来たものを対象とした商品を扱う店がかなり少なくなった様に思えた。
 また、同じ休日にも拘らず以前の様な賑わいはなぜか感じられなかった。イベントなども無かったせいか、我々が訪れた時間帯によるものか、とにかく訪れている人が少ない。
 高台移転等により住んでいる人が少なくなったのか、観光で訪れる人の減少か、復興事業に携わる人が減ったからか、他人事ながらこれで生活が成り立っていくのかと、この先がとても気になる。

 もう一つ気がかりになったことは、牡蠣漁師の千葉さんが話されていた、収益の上がる大手の企業には手厚い支援があるものの、千葉さんと同様の中小の事業者には支援の手が滞っているのではないかと言うことが、必ずしも復興支援が大きな被害を受けた地元の人たちの復興に十分役立っているとは言えないのではないかという現実を目の当たりにしたことである。

 そのことは気仙大島の亀山から見た美しい景色の中に、嘗ては無かった真っ白な防潮堤が所々にくっきりと目に入ってくる違和感と重なるものがある様な気がした。

 今回で最も貴重な経験は、南三陸町戸倉小の麻生川校長先生と気仙沼市向洋高校の武田教頭先生の生々しい体験談が聞かせて頂くことが出来たことではないかと思う。
 このお二人は、普段から津波に対する強い危機意識を持ち、事前に避難についてその場所に即した具体的なシミュレーションを行い、避難訓練を通じて子供たちにも周知していたことが一人の犠牲者も出さずに済んだとお話しされていたと思う。
 そして、何よりも
「日常的に何でも話し合える職場」を意識的に作られていると言うことが強く印象に残った。
最後は人の連携、チーム・プレーが決め手になるというお話はストンと腹に落ちた。
 このことは、どのような組織にも通ずることであり、改めて非常時のリーダーシップのあり方を思い知らされた。
また、これは個人的なことではあるが、私は東京生まれの伊豆育ちである。
今回の大震災とそれに伴う原発事故により故郷から離れた多くの子供たちのことがどうしても頭に浮かんでくる。
その子たちは、生まれそして育ったという本当の「故郷(ふるさと)」を否応なしに取り上げられてしまった。
 麻生川先生のお話を聞いたり、大川小の瓦礫の跡に立ったり、人影がなく静まり返った浪江町の光景を目の当たりにすると、この地から止むを得ず出て行った子供たちが避難先で受ける嫌がらせやいじめ、そして仲の良かった幼友達との別れにどれだけ苦しみ悲しんでいるかと思うと心が痛む。

 暗い話ばかりになってしまったが、いつも夕食の後の杉山さんを中心としたライブはとても楽しく聞かせて貰っている。 ギターとボーカルの杉山さん・西さん、キーボードの鈴木さん、そしていつも美しい音色のオーボエを演奏して下さる中口さん、本当にありがとうございます。
 今回は地元の千葉拓さんの演奏が聞けなかったのが残念だったが、皆さんの素晴らしい演奏にはいつも大いに楽しませてもらっています。

 そして、最後になってしまったが、いつも幹事の皆さんの献身的な活動には本当に頭が下がる思いです。
心から感謝しています。本当にありがとうございました。そして、お疲れ様。
 以上、今回の旅はいつものように和気あいあいととても楽しい旅であったのと同時に、自分自身はややブルーな気持ちにもなった旅でした。


                               岩本 学(27)

初めて参加させていただきました。貴重な経験をさせて頂き有難うございました。

 19日出発地の韮高向けて出かけた時は勝手がわからずどうなるのか不安と期待を持ちながらの参加でした。
 21時に韮高を最初の訪問地の気仙沼市へ向けて出発しました。途中三島や東京などで参加者を拾いながらの行程でなかなか幹事は大変だなとまずはビックリ!
高速道路に入り眠りに就くも、ふと気がつくと朝焼け!この時は気仙沼市までは未だ遠い。

 気仙沼港で語り部さんの案内で復興工事中の気仙沼港周辺を巡り、その後大島に渡る途中別の語り部さんに震災時の説明をフェリーの中でききましたが、震災の爪痕を残しつつも復興工事は進められており、いずれ震災で何が起こったのか分からなくなってしまうでしょう。震災の記憶を後世に残し教訓とするには語り部の活動は素晴らしいものと感じました。
 気仙沼は漁業で生きると決め港の防災工事を進めています。気仙沼港では、5メートルの防波壁を巡らす工事が進められています。1000年に1度の大津波は防げませんが、100年に1度の大津波には対応できる高さだということです。復興を進める上で資金が必要であり、経済原理から言って妥当な選択でしょう。
 向洋高校の周りは更地になっています。しかし港近くは区画整理が進められ、企業の建物が再築され気仙沼の決意のほどが伝わってきます。
 大島に渡りましたが以前は港近くに民宿が連なりお客を出迎えたそうですが、震災で皆流されてしまったそうです。港の前が妙にさみしい感じがしますが、建築許可が下りず、小高い位置に再建中でしたが、車を運転出来るうちはいいが年を取ってきたときにその昇り降りを考えると果たしてこの選択が良いのかどうか考えさせられました。三島にもかつて山にニュータウン造成されましたが、時を経てかなりの人たちが里のマンションに引っ越してしまった事例が有ると聞きます。いざという時の避難地・方法をしっかり決めて港近くに住む選択肢は無かったのかなと思います。
 因みに風光明美なこの島には気仙沼ちゃんの民宿が有りました。かつてマスコミに取り上げられた観光地だったんだ。

 南三陸町の戸倉小学校跡、避難した高台、神社を訪問しましたが、小学校は片付けられ盛り土もされどこに有ったのか判らなくなっていました。幸いなことに前の晩に当時の校長先生の話しを聞く機会に恵まれたことで震災時にこの地で起こった悲劇の中の生への脱出劇を想像することができました。津波は来るという前提に立った日頃から積み重ねた震災時の避難地・方法について議論、そしてその上に立っての迅速な決断。
 又、前日の講演では一緒に気仙沼向洋高校の当時の教頭先生も来られ震災当時の生の話を聞くことがで、やはり津波の来た時の対応が決められており、生徒を高台に逃がし事なきを得たうえで、学校の大事なデータの入ったサーバーをも確保するという離れ業をやってのけたのはここでも適正な判断と迅速な決断でした。

 私は、3年間地元の自治会役員をしてきて防災訓練や防災マニュアルの検討などをしてきました。防災訓練はややマンネリ化し、市役所の作る防災マニュアルは分厚い。いざとなった時はたして機能するのか考えさせられました。東海大地震を想定した訓練を続けていますが、私の地区は山を背負っており急傾斜地の工事は行っていますが、想定外の雨が降った場合山間の道は川となり濁流が流木を住居地に運ぶ可能性が有ります。狩野川も治水が進んでいますが、まだまだ想定の工事が終わっていないと聞きます。

 1000年に一度の大地震による大津波が有ったのだから、1000年に一度の集中豪雨がこの地に降らないとは限りません。その時どう決断すれば良いのかなどと考えてしまいます。

 なお、講演に来て頂いた2人とも参加者の韮高同窓生の大学の後輩や同期でした。韮高生の人脈すごいですね。

  その後悲劇の防災対策庁舎付近の仮説商店街を訪れましたが、ここの悲劇はほんとうに悲しいですね。職務を全うしたがゆえに落命してしまった。この震災ではこのような素晴らしい人たちが多く亡くなりました。生きて居ればさらに地域のために尽くしていただろうと思うと残念です。息子も消防団に入っています。しっかり職務は尽くしてもらいたいが、生き抜いてほしい。親バカです。

 石巻市の大川小学校跡は悲惨でした。現状は沢山の命と地区の壊滅跡となっていました。
裏山から見ると広々とした野の中にポツンと有った小学校の様に見えますが、震災前はびっしりと家々が建ち並んでいた地区でした。それらが目の前の北上川を遡上した津波に流されてしまいました。
 娘さんを亡くしたお父さんが語り部として説明して下さいました。真相は薮の中ですが、震災発生後津波が発生しても、なぜか避難行動が取られていませんでした。市の想定では津波の到達が無いことになっていたようです。記録が無いことが理由のようです。
 津波が来ることを前提にしていた学校とそうでなかった学校の日頃の訓練、避難想定が結果として悲劇と成って尊い命がたくさん失われたということです。
 しかし、普段授業でも入っていた裏山に直ぐに逃げなかったのか?私たちでも簡単には入れる山である。何故避難場所として最適な裏山が有ったのに亡くならなければならなかったのか?学校に居た先生も児童もほぼ亡くなってしまった今は謎のままです。
 この学校では決断が出来なかったと言うことになります。それでは決断すために何が必要だったのかと色々考えさせられました。

 最後に福島県双葉郡浪江町です。津波は無かったのですが福島第1原発の事故で強制避難させられた町です。避難指示が解除され町役場が再開して居ますが、未だ未だ帰還者は元の住民の二割に届きません。屋根に土嚢を乗せたままの家も有り震災後7年経っても修理して居ない家も目につきます。正にゴーストタウンです。
 役場の横に仮設商店街が有りますがお客あまり居ません。国道6号線を南下して居ても帰還困難区域なのか封鎖されている家も未だ未だあります。道を走っていたのはパトカーとパトロール中の消防署の車と観光客だけでした。
  仮設商店街で私は味噌ラーメンと焼きそば、ニンニク七味を買いました。浪江町は焼きそばが有名だそうです。富士宮やきそばの様に太麺です。復興支援になったどうか。

 それにしても、原子力発電所の事故はすさまじいですね。本県にも浜岡原子力発電所があり、他人事ではありません。稼働するかどうかはこれから決めるのでしょうが事故は起こしてはいけません。ではどうするのか?私に今答えは有りません。

 これで今回震災の地を訪ねる旅は終わりです。
 韮山には21:30に到着で、48時間の弾丸ツアーでした。色々考えさせられ有意義な時間を過ごしました。有難うございました。


  第六回東北応援防災学習ツアーに参加して
       
                     上田  弘(30)
 
 被災地の復興を応援しようという韮高ボランティアツアーに、わたしはこれまで四回参加させてもらい、神社の掃除をしたり、被災者の店で買い物や食事をし、また各地のボランティアガイドの方に同乗してもらい、被災の様子などを聞かせてもらった。駅前が津波で流された南三陸町伊里前の漁師の千葉さんと渡辺さんには毎回お会いするのが恒例になっていて、「忘れませんよ、また会いに来ます」と約束して、毎年復興が進む様子を見てきた。

今回、震災から六年が経ったけれど、復興は、勝手にわたしがイメージしていたものとは違うことを感じた。残骸が撤去されていき、仮設住宅に住む人が減り、嵩上げと新しい道路の工事が進められているので復興に向かって進んでいると思っていたけれど、震災前の町に戻ることは無いだろうと感じた。伊豆でも多くの商店街はシャッター通りになっている。先祖の土地を守る、ふるさとで暮らしていくという意識がなければ、人も少ない被災地で新たな借金を抱えて事業を始める決心はなかなかつかない。伊里前の復興商店には旅行者の買いたい品物はなく、生活品が主体だ。町の一等地にあるのに、住民の買い物をする姿はいつ見ても多くない。土日のせいなのか。町に人の賑わいがない。働いている人も見かけない。おそらく来年行っても変わらないのではないかと思う。乱暴な言い方になるが、もしあそこに大型ショッピングセンターができれば、町が活気づくし居住者も集まってくるのではないか。わたしがイメージしていた活気ある町というのは、実はそういうものだったかもしれない。町に賑わいを取り戻したいと地域の人たちが個々に頑張っても、どうしようもない無力感を感じた。
 唯一、気仙沼港の活気にあふれた再開発の様子は落ち込んだ心を励ましてくれる。

帰路立ち寄った福島県浪江町の人気のない町の様子にはもっと深刻な問題を感じた。地震の被害はほとんどなさそうな様子。原発事故によって避難指示地域となり、つい二月ほど前に指示が解除されたそうだ。しかし戻った人は町民の二割足らずで、車窓からは生活が営まれている景色は無かった。浪江町庁舎は立派な建物で敷地内にある仮設の商店に寄った。真っ先に戻った役場職員のための店なのだろう。日曜日のためか二軒だけ営業をしていて、コンビニも閉まっていた。

六年間を他所で生活し、戻って仕事はあるのだろうか。どれだけの住民が帰ってくるのだろう。子供がいる家は戻る選択をするだろうか?事業を再開するには、働き手と利用客が必要だ。人が集まるまでにどれだけの歳月が掛かるだろうか。人のいない町は登場人物の出てこない舞台で、幕が上がって、時間だけが経過しているようだ。

石巻市の大川小学校を訪問した。子供を亡くされた方から裁判で争っている理由などを聞かせて頂いた。校庭に集合してから、津波が来るまでの45分間、どうして逃げずにとどまっていたのか。教育委員会が生き残った先生と生徒に聞き取りをしているのでその報告を待っていたが、その内容は当てが外れた。それまでに聞いていた話とは違うし、曖昧で、矛盾が多くて、削除したり作り上げたりした報告書で、真実が書かれているとは思えなかった。遺族とともに子供と先生の死を悲しみ共に歩んでくれると思っていた教育委員会は遺族の期待を裏切ったという。

復興に必要なのは経済的な支援だけではない。子供を失い大きな喪失感に襲われているたくさんの親たちには、あの時何があったのかを明らかにし示してあげることこそ一番の支援ではないか。幼い子供を亡くした親が悲しみを整理して前に進むためには、その時の子供の様子を知り、追体験して自分の中に取り込んで同化するような作業が必要だろうと思う。そのためにも真実が知りたいだけなのに。しかし教育委員会は遺族の心に寄り沿おうとしなかった。責任を回避したいという方針なのだろう。

いったい誰でも非常時に正確な判断ができるとは限らない。わたしは想定外の出来事への対応では人の判断や失敗についてもっと寛大であるべきだと思う。異論はあるだろうが津波は天災だ。それを人災だとして現場にいた誰かに罪を負わせる風潮は良くないと思う。そのうえで、事実とは異なる内容を記録したものを調査報告書として、公的に残すという教育委員会の姿勢には親との信頼関係で子供を育てていくという視点を失っていると感じる。

宿舎では夕食後、体育館に集まって、間一髪生徒たちを高台に避難させて助かったという、参加者の後輩で当時小学校の校長先生と、別の参加者の同級生で当時高校の教頭先生のお二人から震災までの事、避難の時の事、振り返って感じたことなどの話をしていただいた。南三陸町戸倉小学校は地震から最短だと3分で津波が到達すると言われていた。校舎の屋上に逃げるか、移動だけで5分程度かかる高台まで逃げるか、校長先生と教師と日ごろから議論を重ねていたが結論は出ず、被災時に校長が判断すると決めていた。高台に逃げ、その後さらにその上の神社まで駆け上がって、全員助かった。校舎が屋上まで津波に飲み込まれていく様子を見守ったという。気仙沼市向洋高校は伊達藩の塩田跡に建てられた高校で津波が来れば助からないことは分かっていた。生徒をすぐに高台へ避難させ、重要書類は校舎四階に移して無事だった。どちらの先生も日ごろから津波に備えて慌てず、躊躇なく避難を実現した。しかし、戸倉小に津波が3分で届いていたら避難途中で全員流されていただろう、たまたま高台の選択が良かっただけだと言われた。生徒だけでなく受験生の合否の書類などを校舎の最上階に移して無事に守ることができた先生も、その為に教員の避難が遅れて間に合わなかったら、指示した責任は重く、あとから体が震えたと話された。

大川小の悲劇に対して、お二人の話は奇跡・快挙ではあるけれど、改めて考えると、なぜそんな危険な場所に学校があったのか。学校関係者も、生徒の親も黙って子供を学校に通わせてきたのか。そういう地域の中で、その時だけ被害者だと言って責任を問えるだろうか。訴える人、訴えられる人という今の訴訟社会の在り方に疑問を感じた。

韮高主催!ボカバス初参加させて頂きました。大変にお世話になりました(__*)!貴重な体験の数々。本当にありがとうございました。お誘い下さった大野さんに、大!感謝しています

感想つぶやき。でお許し下さい(o_ _)o

東北大震災が、日本中の人々の生活や思考を変化させた。と感じる事が増えてきているように思い感じています。 食べるモノ。身に着けるモノ。外出先で何かあったら?!どうしたらよいか?は、誰も教えてくれないし、正解!は。。。? とっくに大人になっているに!次の世代への伝言ができない!今回の津波から子供達を無事に避難するまでの経緯と状況説明とその時の思いを話して下さった先生方に、感謝しています。

情報化社会の今日。化学と科学技術の進歩の中、大自然の憑依と癒しの受け取り方を改めて考え直し、震災からの復興を心から願います。

韮高卒業生!のこれからのますます!の発展と繁栄とご活躍を心から祈って!

                                                           上西安喜子