第6回 韮高同窓会 東北応援防災学習バス(通称ボガバス) 報告 |
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■平成29年5月19日(金) 夜9時 有慶館前を伊豆箱根(大型)バスにて出発。 三島市内→東名足柄S.A.→東京駅八重洲口23:30→常磐道矢田部東P.A.で 参加者をピックアップ。 ■20日 朝7時 気仙沼市内で朝食。8時 気仙沼「海の道」で語り部乗車、市内見学。 10時気仙沼フェリー乗り場から気仙大島へ渡る。フェリー内では語り部の説明。 気仙大島内を見学と昼食。13時40分フェリー発。 14時40分バスにて気仙沼発。15時半〜南三陸町歌津着後、福幸商店街・ざわ漁見学。 「平成の森」に宿泊。 ◎ 震災時に南三陸町立戸倉小校長・麻生川先生 (高27)藤本さつきさんの大学時代の後輩。 震災時に県立気仙沼向洋高校教頭・武田先生 (高30)鈴木元さんの大学時代の友人。 同窓生のご縁で、貴重な体験と教訓を聴く ♪♪(高30)杉山博司さんと西真洋さんのフォークライブ♪♪ ■21日8時半出発、防災対策庁舎・さんさん商店街を見学。 戸倉小跡ではバスを降りて高台までを歩いてみる。 11時 石巻市(旧)大川小見学。 *大川小では昨年同様 紫桃さんに語り部をお願いした。 説明中、私達とは別に個人で訪れた同窓生(高49)鴨田幸紀さんと遭遇 「今回は、仕事で仙台出張の最中時間を見つけて急遽レンタカーを確保して訪問しました。 語り部さんが存在するのは知っていましたが、当然予約も何もしておらず。 当日韮高同窓会の前に別の団体が説明を受けているのをみて、是非話を聞きたいと思って飛び込んだのが、 たまたま同窓会の回だったのでした。 裏山にて伊豆日日新聞の記者の自己紹介が聞こえなければ気がつかなったと思います。」 帰路、福島県を走行し浪江町役場近くの商店街に寄る。 21時半 韮高帰着 高11回卒〜高60回卒の同窓生と、その子、紹介者等29名参加。 感想文を寄せてもらいましたので、掲載していきます。 ■伊豆日日新聞記者(高60)勝田航平さんの記事 【特集・連載】 韮山高同窓会被災地奉仕バス"最後"の旅(上) http://m.izu-np.co.jp/feature/news/20170529iz3003000015000c.html 韮山高同窓会被災地奉仕バス"最後"の旅(下) http://izu-np.co.jp/feature/news/20170530iz3003000016000c.html ■土屋貴央さん(高39)が撮影したアルバム https://www.dropbox.com/sh/yuv0gxa7dqbz6bx/AACYwac3Nerts33-G9NSnm3na?dl=0 |
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気仙沼から南三陸町へ(5月21日) 常磐道、建設が進む南三陸道から改修が進められる海沿いの国道を走り、気仙沼市へ。 復興が大々的に進む国内有数の水産基地を,燃料タンク被災による大火災を思い浮かべながらガイドの説明に耳を傾ける。フェリーで気仙大島にわたり山頂からきれいなきれいな砂浜や入り江を眺める。死者31名、家屋流出130戸。船舶流出700隻という被災の事実を知らなければなんと美しい自然か。 南三陸町伊里前浜は狭い浜が数メートルの盛り土と河川堤防工事が実施中で、商店街も盛り土上に移転されている。白魚漁は改修中の河川内で頑張っているが「ウタちゃん橋」は近寄れず来年には姿を消しそうだ。カキ養殖の千葉さんの作業場に寄るが人影はなくお休み?。しかし周辺を数メートルの盛り土に囲まれた作業場は異様な風景。千葉さんにお会いした参加者の話では思うように進まない復興に疲れてしまったとの当人の弁。云うべき言葉もない。 宿泊所平成の森での夕食後,当時の向洋高校、戸倉小の先生から地震津波時の対応、とるべき方策について経験者としての貴重な報告とアドバイスをいただく。 防災対策庁舎、戸倉小跡、大川小そして浪江町へ(5月22日) 防災対策庁舎のある旧志津川町、海抜1メートル前後の全滅した市街地も見上げるような盛土と大型ショッピングセンターの工事が全盛。遠くから対策庁舎に手を合わせる。 戸倉小へ。国道の改良工事で先生の案内がなければ小学校も集落もどこにあったのか見当もつかない。3階建ての校舎の屋上まですべて水没。的確な判断で高台へ、そして五十鈴神社への避難で被害を最小限に食い止めた関係者の日ごろからの努力、的確な判断と行動には敬服。またここに社を構えるまでに被ったこの地域の被災の歴史とその凄まじさを想像した。 (参考文献)天災から日本史を読み直す:磯田道史。中公新書。 大川小へ。昨年に引き続き娘さんをなくされ、真相究明の中心メンバーである紫桃さんに全体、現況の説明を聞く。どうしてそこに登って避難しなかったのかの至近の山道を登ってみる。事故時、及びその後の関係者の対応。十分な機能を果たせず終了した事故検証委員会。そして裁判へ、あれだけ大きな津波が来るとの情報に的確に避難行動をとれなかった学校の過失を認めた一審判決、二審係争中。 軽々な感想を述べることは慎まなければならないが、学校を含め地域全体の地震津波対策の不備、地方自治体、生存者を含め関係者の真相解明対応への疑問、そのことによる関係者、地域に与えた深刻な亀裂の修復は、教育関係を含め、地方自治体が取り組むべき最大の課題、行政組織の先導なしには解決できない課題だと思う。 (参考文献)石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する 池上正樹、他 ポプラ社 小さな命の意味を考える 第2版 同会発行 そして浪江町役場前に。本年3月末日をもって居住制限区域,及び避難指示解除準備区域の避難指示が解除され(町全体から見れば部分的であるが多くの町民の居住地区)、役場機能の一部が再開された。しかし一部に屋敷内をコンクリートやシートで被覆する等の帰宅準備の動きはみられるが、ほとんどの建物が閉じられた街に車両通行の少ない国道6号線の赤信号の点滅が異様な光景を作り出している。 町の調査によれば町民のうち、青壮年以下の70%以上、高齢者でも半数以上が戻らない戻れないとの意向を示し、すぐ戻りたいは20%以下である。家の周辺のみの除染で避難解除しても問題解決の一歩にもなっていない現実。避難解除で復興に向けて少しは動き出しているのではとの甘い期待は吹き飛んだ。原発事故の被害、犠牲の大きさと復興の困難さ、必要な膨大な時間と費用をあらためて思い知らされる締めくくりでした。 終わりに 震災発生から時間の経過で参加者減少の困難な条件下で、第6回の東北行を実現させた幹事の皆様に感謝、感謝です。 地震津波被災地の復興、とりわけ個々の生活者レベルの再建は仮設から移りやっと踏み出した段階。福島の原発事故被災地域は復興の方向性さえ見えないレベルだと思います。 東北行きもいつかは区切りをつけるときが来るとの思いと、まだまで被災から立ち直れない現地を忘れないために、また自然災害、原発問題への取り組みの怠慢を見つめ直す機会として東北行きは続けようと思う。 |
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この企画に参加させてもらって今年で5回目となるが、行く度に景色が変わって行き確実に復興は進んでいることを実感出来る。しかし、それはハード面に限ってと言うことではないだろうか。 例えば、各地の復興商店街、場所は津波からは安全な場所に移り、建物も確かに立派なものになった。しかし、お店は日用品を販売する店が多く、お土産品の様な我々の様な外部から来たものを対象とした商品を扱う店がかなり少なくなった様に思えた。 今回で最も貴重な経験は、南三陸町戸倉小の麻生川校長先生と気仙沼市向洋高校の武田教頭先生の生々しい体験談が聞かせて頂くことが出来たことではないかと思う。 |
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初めて参加させていただきました。貴重な経験をさせて頂き有難うございました。 |
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今回、震災から六年が経ったけれど、復興は、勝手にわたしがイメージしていたものとは違うことを感じた。残骸が撤去されていき、仮設住宅に住む人が減り、嵩上げと新しい道路の工事が進められているので復興に向かって進んでいると思っていたけれど、震災前の町に戻ることは無いだろうと感じた。伊豆でも多くの商店街はシャッター通りになっている。先祖の土地を守る、ふるさとで暮らしていくという意識がなければ、人も少ない被災地で新たな借金を抱えて事業を始める決心はなかなかつかない。伊里前の復興商店には旅行者の買いたい品物はなく、生活品が主体だ。町の一等地にあるのに、住民の買い物をする姿はいつ見ても多くない。土日のせいなのか。町に人の賑わいがない。働いている人も見かけない。おそらく来年行っても変わらないのではないかと思う。乱暴な言い方になるが、もしあそこに大型ショッピングセンターができれば、町が活気づくし居住者も集まってくるのではないか。わたしがイメージしていた活気ある町というのは、実はそういうものだったかもしれない。町に賑わいを取り戻したいと地域の人たちが個々に頑張っても、どうしようもない無力感を感じた。 帰路立ち寄った福島県浪江町の人気のない町の様子にはもっと深刻な問題を感じた。地震の被害はほとんどなさそうな様子。原発事故によって避難指示地域となり、つい二月ほど前に指示が解除されたそうだ。しかし戻った人は町民の二割足らずで、車窓からは生活が営まれている景色は無かった。浪江町庁舎は立派な建物で敷地内にある仮設の商店に寄った。真っ先に戻った役場職員のための店なのだろう。日曜日のためか二軒だけ営業をしていて、コンビニも閉まっていた。 六年間を他所で生活し、戻って仕事はあるのだろうか。どれだけの住民が帰ってくるのだろう。子供がいる家は戻る選択をするだろうか?事業を再開するには、働き手と利用客が必要だ。人が集まるまでにどれだけの歳月が掛かるだろうか。人のいない町は登場人物の出てこない舞台で、幕が上がって、時間だけが経過しているようだ。 石巻市の大川小学校を訪問した。子供を亡くされた方から裁判で争っている理由などを聞かせて頂いた。校庭に集合してから、津波が来るまでの45分間、どうして逃げずにとどまっていたのか。教育委員会が生き残った先生と生徒に聞き取りをしているのでその報告を待っていたが、その内容は当てが外れた。それまでに聞いていた話とは違うし、曖昧で、矛盾が多くて、削除したり作り上げたりした報告書で、真実が書かれているとは思えなかった。遺族とともに子供と先生の死を悲しみ共に歩んでくれると思っていた教育委員会は遺族の期待を裏切ったという。 復興に必要なのは経済的な支援だけではない。子供を失い大きな喪失感に襲われているたくさんの親たちには、あの時何があったのかを明らかにし示してあげることこそ一番の支援ではないか。幼い子供を亡くした親が悲しみを整理して前に進むためには、その時の子供の様子を知り、追体験して自分の中に取り込んで同化するような作業が必要だろうと思う。そのためにも真実が知りたいだけなのに。しかし教育委員会は遺族の心に寄り沿おうとしなかった。責任を回避したいという方針なのだろう。 いったい誰でも非常時に正確な判断ができるとは限らない。わたしは想定外の出来事への対応では人の判断や失敗についてもっと寛大であるべきだと思う。異論はあるだろうが津波は天災だ。それを人災だとして現場にいた誰かに罪を負わせる風潮は良くないと思う。そのうえで、事実とは異なる内容を記録したものを調査報告書として、公的に残すという教育委員会の姿勢には親との信頼関係で子供を育てていくという視点を失っていると感じる。 宿舎では夕食後、体育館に集まって、間一髪生徒たちを高台に避難させて助かったという、参加者の後輩で当時小学校の校長先生と、別の参加者の同級生で当時高校の教頭先生のお二人から震災までの事、避難の時の事、振り返って感じたことなどの話をしていただいた。南三陸町戸倉小学校は地震から最短だと3分で津波が到達すると言われていた。校舎の屋上に逃げるか、移動だけで5分程度かかる高台まで逃げるか、校長先生と教師と日ごろから議論を重ねていたが結論は出ず、被災時に校長が判断すると決めていた。高台に逃げ、その後さらにその上の神社まで駆け上がって、全員助かった。校舎が屋上まで津波に飲み込まれていく様子を見守ったという。気仙沼市向洋高校は伊達藩の塩田跡に建てられた高校で津波が来れば助からないことは分かっていた。生徒をすぐに高台へ避難させ、重要書類は校舎四階に移して無事だった。どちらの先生も日ごろから津波に備えて慌てず、躊躇なく避難を実現した。しかし、戸倉小に津波が3分で届いていたら避難途中で全員流されていただろう、たまたま高台の選択が良かっただけだと言われた。生徒だけでなく受験生の合否の書類などを校舎の最上階に移して無事に守ることができた先生も、その為に教員の避難が遅れて間に合わなかったら、指示した責任は重く、あとから体が震えたと話された。 大川小の悲劇に対して、お二人の話は奇跡・快挙ではあるけれど、改めて考えると、なぜそんな危険な場所に学校があったのか。学校関係者も、生徒の親も黙って子供を学校に通わせてきたのか。そういう地域の中で、その時だけ被害者だと言って責任を問えるだろうか。訴える人、訴えられる人という今の訴訟社会の在り方に疑問を感じた。 |
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韮高主催!ボカバス♪初参加させて頂きました。大変にお世話になりました(__*)!貴重な体験の数々。本当にありがとうございました。お誘い下さった大野さんに、大!感謝しています♪ 東北大震災が、日本中の人々の生活や思考を変化させた。と感じる事が増えてきているように思い感じています。 食べるモノ。身に着けるモノ。外出先で何かあったら?!どうしたらよいか?は、誰も教えてくれないし、正解!は。。。? とっくに大人になっているに!次の世代への伝言ができない!今回の津波から子供達を無事に避難するまでの経緯と状況説明とその時の思いを話して下さった先生方に、感謝しています。 情報化社会の今日。化学と科学技術の進歩の中、大自然の憑依と癒しの受け取り方を改めて考え直し、震災からの復興を心から願います。 |
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