【第7回 韮高同窓会 東北応援防災学習バス 報告】


2018年10月27日 
  朝5時韮山出発→東名港北PA→東京駅(日本橋)→常磐道谷田部東PA経由 福島県楢葉町の農家レストランで昼食とご主人のお話
  その後6号線沿いの帰宅困難地域を通過

  仙台市荒井駅で河北新報社 宮田建記者(高39)の紹介で 新聞協会賞を受賞した大川小学校のお話をキャップから伺う

  南三陸の宿舎で夕食後、元郡山市議のお話に続き、宮田さんの取材のお話
   *余談ですが、スーパーボランティア尾畑さんの南三陸での記事を書いたのは宮田さんだそうですよ(^^)

2018年10月28日 早朝、以前からお世話になっている川漁師さんから 鮭の遡上を案内して頂きながら近況を伺う(希望者のみ参加)
    *毎年行くたびに景色は変わっています。

   初回から交流のある牡蠣漁師さんからお土産用の「剥き牡蠣」を購入し、お話を伺う
    *短い中にも今までのご苦労が伝わってきました。

   南三陸の高台に新居を構えた女性の方から、震災当日と地域で協力し 避難生活を送った体験談(宮田さんの紹介による)
    *川崎で教員をされ、地元に戻り4年後に被災。各部屋に避難用持ち出しバックを用意していたにも関わらず、実際に持ち出したものは、
     普段持っているバックのみ。ただ、頭で考えていたことはしっかり残っていたので翌日から切り替えて、采配を振るえたそうです。

   南三陸さんさん商店街経由で大川小学校跡地へ
   当初献花だけの予定でしたが、到着が遅れたことが幸いし 「第18回大川伝承の会」のお話を聞くことができました。
   https://ja-jp.facebook.com/ookawadensyo/

   *昨年まで2回ご遺族の方にお話を伺いましたが、今回は、違う形で伺うことができ、ジオラマも見学。

  閖上の朝市には間に合いませんでしたが、各自昼食後「閖上の記憶」を見学してから、帰路に着き 無事22時過ぎに韮山到着。

  参加者25名+宿泊講師2名

 

7回 韮高同窓会 東北応援防災学習バスを開催して

                                        27回卒 宮下 裕子  

 1027日と28日に韮山高校同窓会主催の、7回目の東北応援防災学習バスツアーを開催しました。参加者は、大人25名、小学生2名。

この活動は、30回卒業生が中心となり立ち上げ、東北応援ボランティアバスとして毎年行ってきました。当初は労働と交流が目的でしたが、昨年から、東日本大震災を忘れないことで東北を応援し、そしてこれから起こりうる東南海地震の災害学習が目的となりました。今年の幹事は11回卒の大野洋と27回卒の宮下裕子が担当しました。

今年の講師を模索していたところ、韮高同窓会名簿から39回卒で河北新報社記者の宮田建さんを知りました。連絡を取り、仙台から参加してもらい、南三陸の宿舎で、記者としてどのように震災と向きあったかについて話を聞きました。

仙台では、平成30年度新聞協会賞を受賞した河北新報社の報道部次長 山崎敦さんに「止まった刻~検証・大川小学校」について講演していただきました。

また、宮田記者の知人で郡山市の元市会議員の駒崎ゆき子さんに、「郡山に暮らして 忘れられつつある震災」について、宿舎でスライドを交えて話を聞きました。

翌日は、南三陸町細浦の、遠くに海が見える高台に移り住んだ元小学校教師の大森つや子さんに、震災当日から避難生活について話を聞きました。

その中で一番心に残ったことは、「災害はいつでも想定外。避難訓練をしても想定外の事が多いいが、訓練をしないともっと立ち行かない。」ということです。

その後石巻市立旧大川小学校を訪ねました。当初予定は献花と見学だけでしたが、予定より遅れて現地に到着したため「小さな命の意味を考える会」代表の元教師の佐藤敏郎さんと「大川伝承の会」代表の鈴木典行さんの話を聞くことができました。鈴木さんは、消防団員として活動中、がれきの中から娘さんを見つけ出したにもかかわらず、遺体検分があるため自宅に連れて帰ることが出来ずに、眼鏡だけを持ち帰ったそうです。

 帰りのバスの中で、駿河湾の津波の高さや狩野川への逆流のレベルのハザードマップを検証しましたが、マニュアルにない判断力と日頃から地域や学校での防災意識を持つことが大切であると思いました。

今回の東北応援防災バスツアーは、宮田建記者と河北新報社の方々、大川小学校の遺族の方々に大変お世話になりました。河北新報社は静岡新聞社とも協定を結び、防災教育の出前も行っているそうです。

この場を借りて、お話をいただいた皆様に御礼申し上げます。

 






 

7回 東北・応援防災学習バスに参加して ~大川小事件を中心に~

                                       30回卒 土屋 知省

 1027日、28日と防災学習バスに参加したが、今回の幹事、大野さん(11回)、宮下さん(27回)の企画により、これまで以上に充実した内容であった。特に、今回は、韮高同窓生である河北新報宮田記者の震災について多くを伝えたいという熱意あふれるご紹介により興味深いお話が伺えた。

避難後、外部からの援助がない日々を住民の組織的な対応により乗り切った、南三陸町細浦集落の大森さんのお話や、避難所での女性の悩み、問題を改善するために専用のスペース設置などに取り組んだ郡山市の駒崎さんのお話など、実際の被災に備え参考になった。

被災地は原発事故で帰宅困難区域のままの地域を除き、震災の痕跡は消えつつある。しかし、避難指示解除で楢葉に戻り、自作の農作物により食堂を始めた「げんき食堂」でも、まだまだ風評被害で農作物が売れず、また、水利施設の復旧状況などから、まだ本格的に農業を再開できないというお話を伺った。また、初回以来通っている南三陸町伊里前では、海が見えなくなると心配していた漁師の千葉拓さんの言葉通り、景観を一変させる、頑丈ではあるがコンクリート一色の防潮堤・堤防が完成しつつあり、商店街も閑古鳥が鳴いているそうだ。これで「復興」と言えるのかなと感じさせた。というわけで、多々、発見することはあったが、今回は、大川小事件に絞って述べたい。

 学校管理下で74名もの児童、10名もの先生方が亡くなり、あるいは行方不明となった石巻市立大川小学校の事件については、なぜこんなことが起きたのか、議論を呼んできた。というのも、地震から津波襲来まで50分近い時間があり、ラジオと2度の防災無線、広報車等により「大津波警報」が伝えられており、十分な高さの裏山まで徒歩2分ほどであり、スクールバスも待機していたのに、避難は決断されず、結局津波襲来1分前に川方向に小高地への移動を開始したが津波の襲来により、上記のような結果となった。何分にも生存者が少なく、特に教師は一人のみであるので、何が起きたか細部は不明である。が、宮城県下では、多くの学校で避難が行われ、学校管理下の児童生徒の犠牲は、1名が亡くなった戸倉中学校を除けば、大川小だけであり、児童生徒を守り抜いた他の学校の先生方のお話を聞いてきた私も、何故?と思わざるを得ない。

新聞協会賞を受賞した大川小事故取材班、山崎キャップのお話を直接伺えた。これまで2回、遺族の方からのお話を聞いていたが、ジャーナリストとして、多面的な取材から、仮説を立てて、細部が分からない悲劇の謎に迫ろうとした使命感と気迫を感じるとともに、同時に、多くの児童、先生、その遺族に対する鎮魂が報道のベースに流れているのを感じた。私は、冒頭の疑問を山崎さんにぶつけてみたが、やはり日頃の防災体制が重要で、訓練をしていないことは本番ではできづらい、との答えであった。

 現地を訪れた大川小学校では、偶然ではあるが、34か月に一度という、遺族の方々の現地案内に行き会え、「小さな命の意味を考える会」代表の佐藤敏郎さん、「大川伝承の会」代表の鈴木典行さん、ご自身の口から、当時の模様を伺えた。消防団員であった鈴木さんが、自ら自分の娘を掘り出しのだが、遺体検分のため自宅に娘を連れ帰ることができず、現地に遺体をブルーシートにくるんで置いていかざるを得えなかた際の筆舌につくしがたい思いを語るのには胸に迫るものがあった。佐藤さんは、容易に登れたはずの裏山を案内し、救えた命を救えなかった現実を直視し、組織の意思決定のあり方等を見直していくことが、未来を拓く(大川小の校歌のタイトル)ことにつながると結んだ。大川小事件について寄せられたメッセージを集めた冊子の中で、閖上地区で心理社会的ケアを広めるためNPO「閖上の記憶」を立ち上げた桑山紀彦医師は、心に傷を負ったものがマイノリティになったように感じる気持ちを吹き飛ばし、自分たちが社会を変える力を持った存在になったことを気付くことが「世界との再結合」を果たすという段階に達する、佐藤さんはそんな存在だと言っている。

 大川小事件は民事訴訟となり、地裁では、津波の襲来は市広報車の呼びかけで予見可能であり、裏山に避難させなかったのは学校側の過失であるとして損害賠償を命じた。高裁では、平時の学校や市の防災体制が争点となり、川に近いにも関わらず津波の襲来を予想して適切な避難地を設定していなかった等として、学校のみならず市の教委の責任も認めた。現在、市側は、当時の県の地震被害想定で作られたハザードマップに大川小の浸水が描かれていない以上、市の教委や学校に被害は予見できなかったとして最高裁に上告している。

 事前に専門家により想定されなかったから、想定外のものには(少なくとも法律上は)責任はない、と言っているのに等しい。「釜石の奇跡」や昨年お話を伺った戸倉小の麻生川元校長先生が最悪以上の事態を想定して安全にと行動したのに比べて、また、地震が来たら高台に避難しましょうというのが常識と思っていた私からすると、違和感がある。また、裁判になってしまったから立場を守るのはわかるが、児童生徒の命を守るべき行政の姿勢としてどうなんだろうかと思う。

 しかし、行政に限らず、危機感のない組織とはこんなものなのかもしれない。

 私たちの故郷、伊豆半島は海に囲まれ、東南海地震の襲来により、沿岸部は津波により多大な被害を受けることが、ハザードマップその他で示されている。しかし、内陸部も、狩野川を遡上する津波の可能性は否定されない。この点、中部地方整備局が狩野川の維持管理計画の中で、被害予想を作成していたが、下流部の閘門や管渠の被害予想のみで、どこまで遡上するのか、支流も含め越堤する可能性があるのかないのか、分からなかった。こんな状況では、私たちに実際に起きたとき、対応ができるのかわからない。

 また、沿岸部が被害を受けたときに、内陸部は、救難、支援の拠点となることが想定される。今回も、宮田記者などに伺ったが、救難支援は、自衛隊、消防などの行政だけの問題でなく、近隣自治体の住民から、食料をはじめ多数の支援が被災者にもたらされ、それが最初の数日を支えたことは事実のようである。

 幸い、伊豆半島は、平成25年の西伊豆町の豪雨災害を除き、ここ数十年大きな災害に見舞われていないが、伊豆半島に被害をもたらすとされる東海地震の今後30年以内の発生確率は88%とされている。また、韮高卒業生の多くが暮らす関東でも、首都直下地震の最近の発生確率予想は、今後30年以内で、東京48%、横浜78%、さいたま51%、千葉73%とされている。今回のバスの企画は、危機感を呼び覚ますうえでもよかったと思う。